DOG ON THE BEACH
光の手
- 2009-11-30
- Category - People
- Tag - health / philosophy / pathology
もう20年近く前に当時の知人から聞いた話。彼女の知り合いに、患部に手を触れて病を治す施術者の女性が居たらしい。幾人もの病人が彼女の元を訪れ、その都度、彼女は患部に手を触れて病を治していた。しかし、数年後に今度は彼女自身が病を患ったが、残念な事に自分自身を治す事は出来なかったようで、果たして彼女は死んでしまった。ここら辺の記憶は曖昧だが、施術者の女性は、病人の病を自分自身の身体に移す事で、患者を治癒に導いていたという話だった。似たような話が乙一の " Kids " という小説に出てくる。
僕の知人は施術者の女性が亡くなった時、この世の何かしらを悟ったような気がしたと言っていた。それから時を経て彼女は美術家となった。何年か前に僕は偶然その事を知った。今現在の彼女が元気でいるのかどうか、僕は知らない。何故だかこの話を今日思い出したのだ。そして時折思い出すこの話を、書き留めて置いた方が良いような気がしたから、今こうして書いている。
僕の知人は施術者の女性が亡くなった時、この世の何かしらを悟ったような気がしたと言っていた。それから時を経て彼女は美術家となった。何年か前に僕は偶然その事を知った。今現在の彼女が元気でいるのかどうか、僕は知らない。何故だかこの話を今日思い出したのだ。そして時折思い出すこの話を、書き留めて置いた方が良いような気がしたから、今こうして書いている。
色即ぜねれいしょん〜黒猫チェルシー
そう言えばそろそろ公開だったかなあと公式HP(注意:強制ウィンドウ・サイジング)を見てみれば、予告編等々がアップされており、YouTube にも公式の動画がアップロードされていたので、それらをぽちぽちと眺めていた。
制作発表
予告編
んで、主人公役の渡辺大知。パンクバンドをやっているという事で、以前にその事を知った時は、あそう、ふーん、という感じで流していたのだけれど、今日改めてそのバンド " 黒猫チェルシー " の PV を観てみたら、予想以上に良くて、すっかり魅了されてしまった。
嘘とドイツ兵 / 黒猫チェルシー
これはもう、制作発表の動画に見てとれる人物像とは全くの別人である。町田町蔵と大槻ケンヂを混ぜたような、動画内で岸田繁いうところのハラワタ系で、観ていてどことなく親しみを覚えるような、ある意味正統な日本の少年パンクであった。音的にはパンクとはいえ随分と洗練されているけど、渡辺大知はパンクス以外の何者でもない。近頃の、ただキレイなだけのバンドマンに比べて明らかに異質である。こんな男の子を主役に起用するとは、前作の " アイデン&ティティ " の主役に峯田和伸を起用するに続いて、田口トモロヲはさすがに目の付け所がばちかぶりである。
制作発表
予告編
んで、主人公役の渡辺大知。パンクバンドをやっているという事で、以前にその事を知った時は、あそう、ふーん、という感じで流していたのだけれど、今日改めてそのバンド " 黒猫チェルシー " の PV を観てみたら、予想以上に良くて、すっかり魅了されてしまった。
嘘とドイツ兵 / 黒猫チェルシー
これはもう、制作発表の動画に見てとれる人物像とは全くの別人である。町田町蔵と大槻ケンヂを混ぜたような、動画内で岸田繁いうところのハラワタ系で、観ていてどことなく親しみを覚えるような、ある意味正統な日本の少年パンクであった。音的にはパンクとはいえ随分と洗練されているけど、渡辺大知はパンクス以外の何者でもない。近頃の、ただキレイなだけのバンドマンに比べて明らかに異質である。こんな男の子を主役に起用するとは、前作の " アイデン&ティティ " の主役に峯田和伸を起用するに続いて、田口トモロヲはさすがに目の付け所がばちかぶりである。
SR サイタマノラッパー / 入江悠
いとうせいこうと大根仁が激賞していたので、渋谷のユーロスペースで " SR サイタマノラッパー " をリバイバル上映を観てきた。
若い頃(最近この言葉をフツーに使えるようになった)というのは、あらゆるシーンに於いて悔しい思いをするものである。とにかく、やる事なす事全てにケチが付く。粋がって格好つけてみても失笑されるだけだし、グレてみても本気の人達を見ていたらとても怖くなってやる事が中途半端だし、フツーにやれと言われてやってみればどうにも浮いてしまう。一体どうすれば巧くいくのかさっぱり判らないし、だいいち何処が悪いのかさえ判らない。言うならば、個人史に於ける馬鹿の時代である。思い返してみても、毎日毎日延々と燻っていた記憶しかない。そして、そういう人間を傍から見れば非常に痛々しく感じる。基本、そういう映画であった。
この映画の特筆すべき素晴らしい点は、上記の二人が既に書いてしまっているので、それをなぞる形になってしまうが、取り敢えず書いてみる。
みひろ扮する元AV女優の同級生が東京に戻るべく、駅へと続く階段を登る場面。みひろが重いスーツケースを引っ張り上げながら階段を登り、数人の男子高校生が階段上から降りてきて擦れ違う。ただそれだけのシーンでほんの一瞬なのだけれど、それはもう舞踏劇を観ているような素晴らしい光景であった。
そしてラストの、いとうせいこう氏が言うところの口説きの部分。俯いて、ボソボソと吐き出される言葉が、ひとたびリズムを刻んで繰り出された瞬間、突如として攻撃性を帯びて暴れ出す。状況からすれば滑稽にも見えるそのスタイルは余りにも切実である。その切実さは、巧くいかない己の人生を思い患い燻っていた魂を再燃させているかのようであった。
若い頃(最近この言葉をフツーに使えるようになった)というのは、あらゆるシーンに於いて悔しい思いをするものである。とにかく、やる事なす事全てにケチが付く。粋がって格好つけてみても失笑されるだけだし、グレてみても本気の人達を見ていたらとても怖くなってやる事が中途半端だし、フツーにやれと言われてやってみればどうにも浮いてしまう。一体どうすれば巧くいくのかさっぱり判らないし、だいいち何処が悪いのかさえ判らない。言うならば、個人史に於ける馬鹿の時代である。思い返してみても、毎日毎日延々と燻っていた記憶しかない。そして、そういう人間を傍から見れば非常に痛々しく感じる。基本、そういう映画であった。
この映画の特筆すべき素晴らしい点は、上記の二人が既に書いてしまっているので、それをなぞる形になってしまうが、取り敢えず書いてみる。
みひろ扮する元AV女優の同級生が東京に戻るべく、駅へと続く階段を登る場面。みひろが重いスーツケースを引っ張り上げながら階段を登り、数人の男子高校生が階段上から降りてきて擦れ違う。ただそれだけのシーンでほんの一瞬なのだけれど、それはもう舞踏劇を観ているような素晴らしい光景であった。
そしてラストの、いとうせいこう氏が言うところの口説きの部分。俯いて、ボソボソと吐き出される言葉が、ひとたびリズムを刻んで繰り出された瞬間、突如として攻撃性を帯びて暴れ出す。状況からすれば滑稽にも見えるそのスタイルは余りにも切実である。その切実さは、巧くいかない己の人生を思い患い燻っていた魂を再燃させているかのようであった。
彼女はサイボーグ / クァク・ジェヨン
言ってみれば童貞脳で創り上げられたドラえもんベースの恋愛物語。クァク・ジェヨンが監督で綾瀬はるか主演というだけの理由で何となく観に行ったのだが、観終えた後どうにも気になって仕方がないので次ぎの日にも観た。で結局3回観たのだけれどそれでも飽きたらずにとうとうDVDまで買ってしまった。ゲロを吐くシーンなんてどうやったって好きにはなれないし、観ていて恥ずかしくなるシーンが幾つもあったりするのに何故繰り返して観たくなるのか。この映画の中の綾瀬はるかが超絶可愛いという事ははっきりと言える。しかしそれだけでは説明できないので繰り返し観ながら色々と考えてみたのだが、よく解らない。僕はは自分が嫌いなものに関しては色々と考察してその理由を突き止めるのだが、好きなものに関しては「好き」という時点でそれ以上は余り考えなくなるようだ。なかなか考察するまでに及ばない。
迫るくる危険から主人を守り、主人の不都合を退け手助けする事を最優先事項として行動するように造られたロボット。それを単なるプログラムであるとして感情を切り離す事が出来るというのなら、人と人との間に存在すると言われる愛情とは一体何だろうね。
- Last Modified : 2008-11-23
渚のシンドバッド / 橋口亮輔
- 2008-07-10
- Category - Art
- Tag - movie / philosophy / sociology / sexuality
先に書いておくと、登場人物の一人が浜崎あゆみである事に、エンディングロールを見るまで気がつかなかった。まあそれは良いとして、己の内なる欲望や欲求に対して羞恥心や罪悪感のようなものを持っている人間にとっては、思春期はまさに地獄の季節である。募り高まる性的な欲求と傷つきやすい自尊心とが最早膠着状態となり、対象を目の前にしてしまえば、世界と自分との距離感を全く掴めずに混乱したまま全てを告げてしまう。それは勿論自分自身と対象となる人間しか目に映っていないからであるが、そういう無様な若い人間の姿も、少し離れた場所から眺めれば結構美しく思えるものである。
この映画ではそういう事が正確な上に密度をもって描かれている。しかもそれが次々と映し出されるものだから、観ているこちらとしては思わず一時停止ボタンを押してしまうのである。もう見ていられないのだ。かといってそれで観るのを止めてしまう事はなく、腹をくくり息を止めてまた再生ボタンを押す。
誰かに受け容れられ安心出来る事を、不器用極まりないアプローチで追い求める登場人物達は皆必要以上に傷つき、そのまま生き続けていく事を恐れている。その恐れの中、傷つかず傷つけずに安心して生きて行くにはどうすれば良いのか。混沌とした迷いの中、彼らは懸命に日常を過ごして行く。
この流れで言えば、次作が「ハッシュ!」となるのは凄く解る。橋口亮輔は一貫して、人の生き方を追い求めているのだと思う。僕はこういう作家が好きだ。音楽にしろ文学にしろ何にしろ、人の一生を描いたものはとても愛おしい。それがカテゴライズとして何と呼ばれるかなんて事は本当にどうでも良い。
★
印象的だった場面を幾つか。
- 浜崎あゆみ扮する、過去に強姦された経験を持つ女子高生が、精神科医との面談時にこう話す。「私、やられてる時にも人の身体って暖かいんだなあと思った。だから、私は人の温かさというものを信じない。」
- 撮影の舞台となった長崎の美しい風景。蜜柑畑を抜けた先の陽の光に溢れた浜辺。
- 山口耕史扮する男子高校生が、自分が河に沈めた自転車を引き上げ、それに乗って走る場面。自転車を駆る少年は美しい。
ぐるりのこと。/ 橋口亮輔
- 2008-06-22
- Category - Art
- Tag - movie / sociology / psychology
私見だけれど、鬱病というのは上手くいかない自分の生活や人生に対して著しい自責の念を持ち、それが行き詰まった時点で静かに発症するのではないだろうか。何かしら不都合が起きれば、何でもかんでも他人のせいにしてしまう人は鬱病にならない気がする。しかしそんな事をし続けていれば何れは周囲の鼻つまみ者になって、あらゆる人達から敬遠されてしまうだろうから、そこで行き詰まれば病気になるのかも知れない。そうなっても尚自分の置かれた状況を認める事が出来ない場合、事ある毎に理屈の通らぬ理由で他人を傷つけようとするのではないか。話が逸れた。自責の念、と書いたが少しニュアンスが違うような気がしてきた。どちらかと言えば「恥」という言葉の持つニュアンスに近い。「誰からも許して貰えない」と思っているが、実は自分を許さないのは他人ではなく自分自身であり、しかもそれは現在の事柄だけではなく過去の出来事からも苛まれる。他人からの評価を自己を越えた最終評価として捉えてはいけない。例え誰からも許して貰えなくとも、自分自身がそれを許す事が出来なければ生きていけない。どんな事が起きようともそれは仕方がないのである。
さて、先にも書いたようにこれは私見であるので、万人に当てはまる事だとは考えていない。そういう領域まで辿り着けない人だっている。しかもこれは最深部での話であるので、次の上層では他者に拠る許容を渇望するようになる。そういった場合、傍に居る信頼する人から許される事は、鬱屈した状態から浮上する助けとなるだろう。少なくともその人の前では自分が存在する事を許されるのだから。他者は自分を救う事は出来ないけれど、自分自身を救うきっかけにはなる。そこに淡い希望を持つ事が出来れば生きていけると思う。
感想と呼ぶには程遠いが、だいたいそういう内容の映画だったと思う。今現在落ちている人にとっては刺激が強いと思うので、余り薦めはしないけどね。
★
この映画を観ている最中、主に終盤辺りには劇場内の方々から鼻を啜る音が聞こえてきた。皆、日々大変な思いをしながら生きているんだなあ。その人達にとってこの映画が何かしらの手助けになれば良いなあ。と勝手な事を思っていたが、実際にその人達がどう思っているかは解らない。ただ、少なくとも僕はこの映画が在って良かったと思う。
余談だが、今夜セックスするしないで揉めるリリー・フランキーと木村多江の長回しの場面がとても楽しい。
真夜中の映画館
- 2008-06-05
- Category - Art
- Tag - movie / environment
先の火曜日、僕は仕事の帰りに「僕の彼女はサイボーグ」を観てきた。場所は新宿バルト9。映画館に足を運ぶ事の少ない僕は、新しく出来たこの映画館の存在を今回初めて知ったのであるが、この映画館は良い。なんたってミッドナイト上映と称して遅くて27時頃までやっている。さすが不夜城新宿である。夜中まで遊ぶ客達か、それとも店を開いてる飲食業従事者達を当て込んだのだろうか。それにしても27時終演というのが絶妙な時間設定である。朝の3時に放り出されても行く所が無い。
今回僕が行ったのは22時終演の時間枠であったのだけれど、夜も深く、この季節特有の湿気を帯びた繁華街に放り出されるのはなかなか良い。何処かで一杯引っかけるか、腹が空いていれば蕎麦でも手繰って、家に戻ればシャワーを浴びてそのまま寝て仕舞えば良い。これまで仕事の帰りに映画を観て帰るなんて習慣のなかった僕には楽しい経験であった。暗い場所で映画を観た後に、目の眩むような陽の光に晒される事を不快に思っていた僕にはうってつけの映画館である。
であれば、休日の遅い時間から始まる映画を観たら良いじゃないかと思うかも知れないが、これがまた微妙な問題で、夕刻になって外へ出かけるというのがどうにも好きではないのである。子供の頃からの習慣が抜けきれないのだ。
今回僕が行ったのは22時終演の時間枠であったのだけれど、夜も深く、この季節特有の湿気を帯びた繁華街に放り出されるのはなかなか良い。何処かで一杯引っかけるか、腹が空いていれば蕎麦でも手繰って、家に戻ればシャワーを浴びてそのまま寝て仕舞えば良い。これまで仕事の帰りに映画を観て帰るなんて習慣のなかった僕には楽しい経験であった。暗い場所で映画を観た後に、目の眩むような陽の光に晒される事を不快に思っていた僕にはうってつけの映画館である。
であれば、休日の遅い時間から始まる映画を観たら良いじゃないかと思うかも知れないが、これがまた微妙な問題で、夕刻になって外へ出かけるというのがどうにも好きではないのである。子供の頃からの習慣が抜けきれないのだ。






