DOG ON THE BEACH
経年鈍化
- 2010-11-15
- Category - People
- Tag - philosophy / biology / anthropology / hatena
今年の秋は、印象としては僅かに二週間くらいしかなかった気がする。四季が失われつつあるのかなあ、とも思うけど、断腸亭日乗を紐解けば、永井荷風が同じように気候の変動を訝しむ記述があったりするので、もしかすると人間の環境に対する感じ方には傾向があって、それ故に四季が乱れていると思い込むのかも知れない。でもまあ、その理屈の動き方が思い付かないのでよく判らない。
それとは別に、年齢を経ていけば、段々と一年という時間を短く感じるようになっているのは何故なのだろうな。子供の頃と違い、歳を取ると環境の変化やそれ自体に対する慣れ、またはそれらに倦む事に因って時間経過の感覚までも鈍化していくからだと聞いた気がするけど、そういうものなんだろうか。物理的な時間は変化しないだろうから、いずれにせよ人間の受容感覚が変化したのだろう。
そう言えば先に挙げた断腸亭日乗、荷風最晩年の死の直前辺りでは殆どが天気の記述だけになる。日記を連ねる体力気力が無くなったのか、それとも何も感じなくなってしまったのか。さすがに老齢までには相当間のある僕には想像がつかない。
しかし考えてみれば、もしかするとそういった加齢に比例した肉体や感覚の鈍化というのは、死を迎える為の準備なのかも知れない。例えば、三十路を越えた辺りから色々な事に対して思い悩む事が少なくなって、幸いにも生き易くなるような感じで。あれだって、もう思い悩む体力がなくなって疲弊しているからそうなるのだろうしね。若い時に比べれば、肉体や感覚が鈍化していた方が死を受け入れ易いだろう。そうすると、老化とは死を目指した成長だと考えれば、何というか、非常に都合の良い生命のプログラムであるような気がしてくる。
それとは別に、年齢を経ていけば、段々と一年という時間を短く感じるようになっているのは何故なのだろうな。子供の頃と違い、歳を取ると環境の変化やそれ自体に対する慣れ、またはそれらに倦む事に因って時間経過の感覚までも鈍化していくからだと聞いた気がするけど、そういうものなんだろうか。物理的な時間は変化しないだろうから、いずれにせよ人間の受容感覚が変化したのだろう。
そう言えば先に挙げた断腸亭日乗、荷風最晩年の死の直前辺りでは殆どが天気の記述だけになる。日記を連ねる体力気力が無くなったのか、それとも何も感じなくなってしまったのか。さすがに老齢までには相当間のある僕には想像がつかない。
しかし考えてみれば、もしかするとそういった加齢に比例した肉体や感覚の鈍化というのは、死を迎える為の準備なのかも知れない。例えば、三十路を越えた辺りから色々な事に対して思い悩む事が少なくなって、幸いにも生き易くなるような感じで。あれだって、もう思い悩む体力がなくなって疲弊しているからそうなるのだろうしね。若い時に比べれば、肉体や感覚が鈍化していた方が死を受け入れ易いだろう。そうすると、老化とは死を目指した成長だと考えれば、何というか、非常に都合の良い生命のプログラムであるような気がしてくる。
- Last Modified : 2011-11-09
青空のミジンコ
- 2008-06-24
- Category - Miscellaneous
- Tag - biology
子供の頃、例えば河で遊び疲れて土手に寝転んだ時や、両親の仕事を手伝った後に其処彼処に積んであった藁の山に身を投げ出してぼんやりと空を眺めていると、青空を背景にして目の前をミジンコのようなものが横に流れていくのが見えた。微生物を撮った顕微鏡写真を見た時のような、透明な器官を持ちその形状が僅かな影に拠って知覚される生き物。そういうものがいつも決まって左から右に、飛んでいるというより不規則に流れていくようにして見えるのだった。その形も軌跡も違うが繰り返し見える。何となく目の動きに合わせて流れているようにも見える。
これは一体何なのだろうと考えてはいたが、何となくその話はこれまで誰にも話していない。特に何の害ももたらさないので「不思議な事があるもんだなあ」で済んでいたからだと思うけれど。後年、それは眼球の表面に付着した埃が、涙に流されていく様が見えているのだろうと想像したりしていた。
★
そして今日、人間の眼球について調べていたらそれは実は飛蚊症という疾患であるらしい。
僕がそれらを見ていたのは小学生、もしかしたら中学生くらいまで。記憶は曖昧だけれど大人になってからは一度も見ていないと思う。僕には蚊ではなく何故かミジンコに見えたが、ぼんやりと青空を眺める先にミジンコが浮遊しているのは結構楽しいと思うんだけどなあ。また見えるようにならないかなあ。
これは一体何なのだろうと考えてはいたが、何となくその話はこれまで誰にも話していない。特に何の害ももたらさないので「不思議な事があるもんだなあ」で済んでいたからだと思うけれど。後年、それは眼球の表面に付着した埃が、涙に流されていく様が見えているのだろうと想像したりしていた。
★
そして今日、人間の眼球について調べていたらそれは実は飛蚊症という疾患であるらしい。
視界に糸くずや黒い影、蚊のようなものが見え、視点を変えるにつれ、それが動き回る。明るい場所で白いものや空を見た場合によく見える。多くの場合加齢により自然発生する。飛蚊症自体は目の機能に問題はないが、網膜剥離の初期症状や糖尿病網膜症の症状としてあらわれる事もあるので、眼科の受診が必要。一気につまらなくなった。どうせ人体には影響がないのであるなら、この世の不思議としてずっとニヤニヤしていたかった。まあ、網膜剥離や糖尿病網膜症は怖いが。
Wikipedia
僕がそれらを見ていたのは小学生、もしかしたら中学生くらいまで。記憶は曖昧だけれど大人になってからは一度も見ていないと思う。僕には蚊ではなく何故かミジンコに見えたが、ぼんやりと青空を眺める先にミジンコが浮遊しているのは結構楽しいと思うんだけどなあ。また見えるようにならないかなあ。
雑踏の中の静寂
- 2008-01-06
- Category - Art
- Tag - installation / poetry / philosophy
前年末の夜に新宿を彷徨いていた時、西口の小田急百貨店近く、シャネルのショーウィンドウの前辺りで、何年ぶりかに「私の志集 三00円」と書かれたプラカードを首から提げて、頭上を渡る遊歩道の柱の前に立つ女性を見かけた。彼女の名前は冬子という。東京在住の人なら一度くらいは新宿へ赴いた際に見かけた事があるであろう、半ば都市伝説となりかけている女性である。「私の志集」で検索すれば幾らでも出てくる。その女性を見かけた人、詩集を買った人、その女性に話しかけた人。中には冷やかしどころかからかい半分で近づく輩もいたりする。僕はそういう事をする人間が大嫌いなのでそれらの記事は無視するとして、実際にその女性に話かけた人達の書いた記事を抜粋して下にリンクする。それらを読めば、人々が彼女を見てどういう風に感じ、そして接していったのかが分かる。まあ、僕のフィルタを通しているので多少偏った選択にはなっていると思うが。
1999年に発行された田口ランディの「もう消費すら快楽じゃない彼女へ」という随筆の中にもその女性の事が書かれていて、田口ランディもその女性に話しかけたようなのだけれども、事情が上記にリンクしたサイトの運営者達の話とは随分と違う。田口ランディの聞いた話だとその女性は三代目であるというのだ。僕は訝りながらもあとがきを読んだ。すると「本当と嘘が混ぜっこぜになってしまった。」と書いてあったので、恐らく半分以上が創作であるのだろう。しかしそこに書かれている当の女性の発言は非常に現実味を帯びて僕に迫ってくる。
昔、僕が未だ上京したての頃の一時期、毎週末渋谷に出かけ、ハチ公前の地下街からの出口付近の擁壁の上に座り込んで、駅へと流れていく群衆を眺めて過ごしていた事がある。ただぼんやりと眺めるだけで、声をかけられる事も声をかける事もなく、ただただ奔流から取り残された石ころの如く其処に居た。そんな風に過ごしていて、一体どうしたかったのか未だに自分でもよく解らない。刺激に飢えていたのか、それとも人間そのものに飢えていたのか。とにかく、群衆に対峙する事に拠って何かを満たそうとしていたのではないだろうか。昔から人付き合いが余り得意ではないので、いつ何処に居ても気付けば本流から外れていた僕は、そうする事に拠って何かを補おうとしていたのかも知れない。たぶんその当時は別な事を考えていたのだとは思うけれど。
★
人は他者との接触に拠ってしか自分を確認する事が出来ない。というような事を誰かが書いていた。他者に対して強く自分を主張するには気力も体力もネタも要る。それらの要素が乏しい場合に自分を主張しようとするならば、己の肉体を晒すしかないように思う。自分の存在を他者に知らしめるには、ただただ己の肉体を晒し続けるしかない。それは苦痛を伴った安堵をもたらすだろう。
こうしてこれを書いている今も、きっと彼女は意志を持つ新宿の風景として立ち続けているのだろう。
★
しまだゆきやすという人が「私の志集 三〇〇円」というタイトルで20分程の短編のドキュメンタリ映画を撮っていて、第2回ガンダーラ映画祭に出品している。去年の7月にも上映されていたらしいのだが僕は全く知らなかった。また何処かで上映してくれないかなあ。
1999年に発行された田口ランディの「もう消費すら快楽じゃない彼女へ」という随筆の中にもその女性の事が書かれていて、田口ランディもその女性に話しかけたようなのだけれども、事情が上記にリンクしたサイトの運営者達の話とは随分と違う。田口ランディの聞いた話だとその女性は三代目であるというのだ。僕は訝りながらもあとがきを読んだ。すると「本当と嘘が混ぜっこぜになってしまった。」と書いてあったので、恐らく半分以上が創作であるのだろう。しかしそこに書かれている当の女性の発言は非常に現実味を帯びて僕に迫ってくる。
(中略)私の詩を買ってください、という目的のもとにこうして雑踏のなかに立っていることが、なんともいえない気分なのです。適度にちっぽけで、適度に無記名で、適度に主張していて、そしてこのすべての世界とつながっていると思える。不思議な感覚です。
(中略)だって私には主張したい事なんてないんです。だからずっと自分がなんなのかわからなかった。でも、こうしているとよくわかります。これが私です。その日僕は少しの間躊躇した後に、彼女に歩み寄り声をかけた。一部下さい。それまで虚空を見つめていた(何故かしら皆この表現を使う)彼女はの目は、ふいに近付いて来た僕をしっかりと見据えて応えた。はい、どうぞ。僕は100円玉三枚と引き替えに差し出された志集を受け取った。何か話かけてみようかとも思ったのだが結局、どうも、とだけ言い残してその場を離れた。この人の邪魔をしてはいけない。彼女の虚ろで強く、ほんの少しだけ温度を感じる眼差しを見てそう思った。彼女に声をかけ志集を買ったのは興味本位である。その上更に色々と知ろうとするのは、非常に邪であるように思われた。
昔、僕が未だ上京したての頃の一時期、毎週末渋谷に出かけ、ハチ公前の地下街からの出口付近の擁壁の上に座り込んで、駅へと流れていく群衆を眺めて過ごしていた事がある。ただぼんやりと眺めるだけで、声をかけられる事も声をかける事もなく、ただただ奔流から取り残された石ころの如く其処に居た。そんな風に過ごしていて、一体どうしたかったのか未だに自分でもよく解らない。刺激に飢えていたのか、それとも人間そのものに飢えていたのか。とにかく、群衆に対峙する事に拠って何かを満たそうとしていたのではないだろうか。昔から人付き合いが余り得意ではないので、いつ何処に居ても気付けば本流から外れていた僕は、そうする事に拠って何かを補おうとしていたのかも知れない。たぶんその当時は別な事を考えていたのだとは思うけれど。
★
人は他者との接触に拠ってしか自分を確認する事が出来ない。というような事を誰かが書いていた。他者に対して強く自分を主張するには気力も体力もネタも要る。それらの要素が乏しい場合に自分を主張しようとするならば、己の肉体を晒すしかないように思う。自分の存在を他者に知らしめるには、ただただ己の肉体を晒し続けるしかない。それは苦痛を伴った安堵をもたらすだろう。
こうしてこれを書いている今も、きっと彼女は意志を持つ新宿の風景として立ち続けているのだろう。
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しまだゆきやすという人が「私の志集 三〇〇円」というタイトルで20分程の短編のドキュメンタリ映画を撮っていて、第2回ガンダーラ映画祭に出品している。去年の7月にも上映されていたらしいのだが僕は全く知らなかった。また何処かで上映してくれないかなあ。
千の風になって
昨年末の事。恒例の紅白歌合戦で秋川雅史が歌う「千の風になって」を聴いた。僕は全然知らなかったのだけれど、世界中で知られる詩に新井満が曲と訳詞をつけた歌であるらしい。聴いていて、不覚にも家族の手前で涙を流しそうになった。映像の中でも紹介されているように、この詩の起源は作者不詳と認識されているようなのだが、色々と探してみると諸説あるようである。詩の内容を読んでいると、何となく神道に近いような気もする事から、個人的にはネイティヴ・アメリカンの民話から出たのではないだろうかと思っている。
「あなたがわたしを思うのならば、わたしはいつでもここにいます。」というような文を何処かで読んだ事があるような気がするのだけれど、あれは一体何の文章だったのだろうか。
「あなたがわたしを思うのならば、わたしはいつでもここにいます。」というような文を何処かで読んだ事があるような気がするのだけれど、あれは一体何の文章だったのだろうか。
- 千の風になって(新井満のHPより)
触手
夜、漆黒の帳に覆われた空に白い雲が浮かんでいる。世界に動きはない。僕は煙草に火を点け、星を探す。と、空の端っこに一点の光が明滅するのを見つけた。緩やかなスピードでこちら側に近づいてくるその光の正体は、果たしてヘリコプターであり、見上げるその姿は深海を遊泳する海老のようであった。光源は一つではなく、透き通るような赤と黄と青の光を、それぞれ違った間隔で明滅させている。
触手を伸ばして何かを探しているようでもあり、寸断なく緊張を張り巡らし、単独飛行を楽しんでいるようでもある。彼はゆっくりと私の真上を通り過ぎた。
触手を伸ばして何かを探しているようでもあり、寸断なく緊張を張り巡らし、単独飛行を楽しんでいるようでもある。彼はゆっくりと私の真上を通り過ぎた。
ポケット
秋の陽射しは慎み深く、雲高く。肌を舐め流れゆく風は、己の発する熱と声とを運び去っていく。彼方に見えるは引き千切られた雲と、その前を横切るヘリコプター。最近空ばかりを眺めるようになった。行き場のなくなったこの感情を、一体何処へ向かわせればよいのかと思案するも、それさえも宙に浮いて流されてしまう。
ポケットを増やそう。持て余した何かを取り敢えず仕舞っておけるようなポケットを。手に持ったまま、所在無くうろうろしていても仕方がない。いつかそれを取り出して、誰かに差し出す事がないとしても、取り敢えず今は仕舞っておこう。
ポケットを増やそう。持て余した何かを取り敢えず仕舞っておけるようなポケットを。手に持ったまま、所在無くうろうろしていても仕方がない。いつかそれを取り出して、誰かに差し出す事がないとしても、取り敢えず今は仕舞っておこう。
咲かぬが花
土塊に埋もれて早数年。秋には降りかかる落ち葉を余す事なく全身で受け止め、冬には凍てつく地面の下に身を横たえ、虫どもが蠢き出す春を寝て過ごし、夏には木陰に身を寄せる。咲かぬが花。土に埋もれたまま青空を夢想する。しかし、決して花びらを持たぬ訳ではない。






