DOG ON THE BEACH
夢二 / 鈴木 清順
- 2008-05-06
- Category - Art
- Tag - movie / japanese / clothes / installation
そう言えば鈴木清順の映画は一作も観ていないなあというのと、この映画のコマーシャルは昔観た事あったなあというのと、竹久夢二を描いたものなら観てみたいなあというので観てみた。主要人物は実在の人をモデルに、というか名前そのままなのだけれど性格等は実際とはあまり関係なく設定されているし、物語としても実際とは全く関係ない創作である。しかしそれはどうでも良いし、そもそも其処に期待はしていない。僕が DVD のジャケットを観た時に感じた、虚無感に苛まれた人間の色気。恐らくそれがこの映画全編に映し込まれているであろう予感に期待したのである。しかし実際に観れば、予想とは少し違い、人間の色気というよりその場の状況の色気が映されていた。湖や河川や森林の色気、舞台は金沢だがその町屋の造りの色気、手染めの着物の柄の色気、それを纏う女の色気。僕が大好きな世界がそこに映し出されていた。その他、金屏風の前に一輪だけ花が咲いた小鉢を台座に乗せて置いている様とか、赤く怪しく染み広がる揚屋のネオンのような灯りだとか、心打ち震えるような映像で満たされている。
幾ら革命的な美であっても伝統的な美を踏襲すべきである。それを知った上で打破し利用するべきである。この映画を観ながら、そんな事を考えていた。
雑踏の中の静寂
- 2008-01-06
- Category - Art
- Tag - installation / poetry / philosophy
前年末の夜に新宿を彷徨いていた時、西口の小田急百貨店近く、シャネルのショーウィンドウの前辺りで、何年ぶりかに「私の志集 三00円」と書かれたプラカードを首から提げて、頭上を渡る遊歩道の柱の前に立つ女性を見かけた。彼女の名前は冬子という。東京在住の人なら一度くらいは新宿へ赴いた際に見かけた事があるであろう、半ば都市伝説となりかけている女性である。「私の志集」で検索すれば幾らでも出てくる。その女性を見かけた人、詩集を買った人、その女性に話しかけた人。中には冷やかしどころかからかい半分で近づく輩もいたりする。僕はそういう事をする人間が大嫌いなのでそれらの記事は無視するとして、実際にその女性に話かけた人達の書いた記事を抜粋して下にリンクする。それらを読めば、人々が彼女を見てどういう風に感じ、そして接していったのかが分かる。まあ、僕のフィルタを通しているので多少偏った選択にはなっていると思うが。
1999年に発行された田口ランディの「もう消費すら快楽じゃない彼女へ」という随筆の中にもその女性の事が書かれていて、田口ランディもその女性に話しかけたようなのだけれども、事情が上記にリンクしたサイトの運営者達の話とは随分と違う。田口ランディの聞いた話だとその女性は三代目であるというのだ。僕は訝りながらもあとがきを読んだ。すると「本当と嘘が混ぜっこぜになってしまった。」と書いてあったので、恐らく半分以上が創作であるのだろう。しかしそこに書かれている当の女性の発言は非常に現実味を帯びて僕に迫ってくる。
昔、僕が未だ上京したての頃の一時期、毎週末渋谷に出かけ、ハチ公前の地下街からの出口付近の擁壁の上に座り込んで、駅へと流れていく群衆を眺めて過ごしていた事がある。ただぼんやりと眺めるだけで、声をかけられる事も声をかける事もなく、ただただ奔流から取り残された石ころの如く其処に居た。そんな風に過ごしていて、一体どうしたかったのか未だに自分でもよく解らない。刺激に飢えていたのか、それとも人間そのものに飢えていたのか。とにかく、群衆に対峙する事に拠って何かを満たそうとしていたのではないだろうか。昔から人付き合いが余り得意ではないので、いつ何処に居ても気付けば本流から外れていた僕は、そうする事に拠って何かを補おうとしていたのかも知れない。たぶんその当時は別な事を考えていたのだとは思うけれど。
★
人は他者との接触に拠ってしか自分を確認する事が出来ない。というような事を誰かが書いていた。他者に対して強く自分を主張するには気力も体力もネタも要る。それらの要素が乏しい場合に自分を主張しようとするならば、己の肉体を晒すしかないように思う。自分の存在を他者に知らしめるには、ただただ己の肉体を晒し続けるしかない。それは苦痛を伴った安堵をもたらすだろう。
こうしてこれを書いている今も、きっと彼女は意志を持つ新宿の風景として立ち続けているのだろう。
★
しまだゆきやすという人が「私の志集 三〇〇円」というタイトルで20分程の短編のドキュメンタリ映画を撮っていて、第2回ガンダーラ映画祭に出品している。去年の7月にも上映されていたらしいのだが僕は全く知らなかった。また何処かで上映してくれないかなあ。
1999年に発行された田口ランディの「もう消費すら快楽じゃない彼女へ」という随筆の中にもその女性の事が書かれていて、田口ランディもその女性に話しかけたようなのだけれども、事情が上記にリンクしたサイトの運営者達の話とは随分と違う。田口ランディの聞いた話だとその女性は三代目であるというのだ。僕は訝りながらもあとがきを読んだ。すると「本当と嘘が混ぜっこぜになってしまった。」と書いてあったので、恐らく半分以上が創作であるのだろう。しかしそこに書かれている当の女性の発言は非常に現実味を帯びて僕に迫ってくる。
(中略)私の詩を買ってください、という目的のもとにこうして雑踏のなかに立っていることが、なんともいえない気分なのです。適度にちっぽけで、適度に無記名で、適度に主張していて、そしてこのすべての世界とつながっていると思える。不思議な感覚です。
(中略)だって私には主張したい事なんてないんです。だからずっと自分がなんなのかわからなかった。でも、こうしているとよくわかります。これが私です。その日僕は少しの間躊躇した後に、彼女に歩み寄り声をかけた。一部下さい。それまで虚空を見つめていた(何故かしら皆この表現を使う)彼女はの目は、ふいに近付いて来た僕をしっかりと見据えて応えた。はい、どうぞ。僕は100円玉三枚と引き替えに差し出された志集を受け取った。何か話かけてみようかとも思ったのだが結局、どうも、とだけ言い残してその場を離れた。この人の邪魔をしてはいけない。彼女の虚ろで強く、ほんの少しだけ温度を感じる眼差しを見てそう思った。彼女に声をかけ志集を買ったのは興味本位である。その上更に色々と知ろうとするのは、非常に邪であるように思われた。
昔、僕が未だ上京したての頃の一時期、毎週末渋谷に出かけ、ハチ公前の地下街からの出口付近の擁壁の上に座り込んで、駅へと流れていく群衆を眺めて過ごしていた事がある。ただぼんやりと眺めるだけで、声をかけられる事も声をかける事もなく、ただただ奔流から取り残された石ころの如く其処に居た。そんな風に過ごしていて、一体どうしたかったのか未だに自分でもよく解らない。刺激に飢えていたのか、それとも人間そのものに飢えていたのか。とにかく、群衆に対峙する事に拠って何かを満たそうとしていたのではないだろうか。昔から人付き合いが余り得意ではないので、いつ何処に居ても気付けば本流から外れていた僕は、そうする事に拠って何かを補おうとしていたのかも知れない。たぶんその当時は別な事を考えていたのだとは思うけれど。
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人は他者との接触に拠ってしか自分を確認する事が出来ない。というような事を誰かが書いていた。他者に対して強く自分を主張するには気力も体力もネタも要る。それらの要素が乏しい場合に自分を主張しようとするならば、己の肉体を晒すしかないように思う。自分の存在を他者に知らしめるには、ただただ己の肉体を晒し続けるしかない。それは苦痛を伴った安堵をもたらすだろう。
こうしてこれを書いている今も、きっと彼女は意志を持つ新宿の風景として立ち続けているのだろう。
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しまだゆきやすという人が「私の志集 三〇〇円」というタイトルで20分程の短編のドキュメンタリ映画を撮っていて、第2回ガンダーラ映画祭に出品している。去年の7月にも上映されていたらしいのだが僕は全く知らなかった。また何処かで上映してくれないかなあ。
炬燵ライフに於けるその装具、供物及び着衣についての考察
休日に一日部屋に籠もってぼけーっとしていると、いろいろと下らない事を考えてしまうものだ。昨日なども柔らかい陽射しが差し込む部屋の中で、オイルヒーターと加湿器で暖められた空気に微睡んでいたのだが、ふいに炬燵が欲しいなと思いついた。思いつくのは勝手だが我が家は狭い。ベッドかテーブルを始末しない限りは炬燵を置くスペースは無い。その歴然とした事実は如何ともしがたいので、炬燵を購入する件はすっぱり諦め、僕にとっての理想的な炬燵ライフについて考え始めたという訳である。以下にその諸条件を記す。
- 炬燵布団には暖色を用いる。江戸前の藍と灰色と黒の縦縞も考えたが、何処となく寒々しいので止める。因みに僕の実家では、母の好みが大きく反映されていて、色は赤から橙までの色で、格子柄が多かったように思う。それでなければゴブラン織りのような重圧な文様柄。
- 天板は木目を用いる。まあ、それ以外の物って見た事ないけど。
- その天板の上に配置されるのは、急須・湯飲み・竹編みの容器に収まった蜜柑若しくは林檎・サラダ一番・アルファベットチョコレート、そして新聞広告を折って作った屑入れ・花瓶が一つ。
- 部屋の隅には画面の大きなテレビ。自分の周りに放置されているのは漫画と小説。
- どうせその内に横になるので座椅子は要らない。その代わりに枕代わりにする座布団。
- そんな空間での自分の衣服はというと、丹前。これは外せない。その下には着古したスウェットシャツ若しくはセーター。で下半身にはやはりジャージだろうか。出来ればバッタもんである事が望ましい。「 adidos 」とか「 Pama 」とか「 Mike 」が適当だろう。
- ここまで揃えればかなり充実した炬燵ライフを送る事が出来る。しかし欲を言えば、言わせて頂くならば、外を眺めるのに雪見障子が欲しいところである。そして勿論眺めるべき庭も。
丹前
今週に入ってから、陽が落ちてからの気温も下がってきた事だし、押し入れの中から丹前を引っ張り出してきた。少し早い気もしたが、丹前を羽織ったままごろごろしていると、柔らかな暖かさに包まれて幸せな気分になれるのだ。
僕が所有している丹前は、実は友人の置き土産である。藍と青と灰色の縦縞で、あからさまに江戸前な代物だ。実家に住んでいる時はちゃんと僕専用の丹前(故郷では綿入れとも呼んだ)が用意されていたりしたものだが、いざ上京して独り暮らしを始めると、自分で丹前を買おうという気にはなかなかなれずに、そのまま月日は流れたのであった。それがある日、友人が地元に帰る(んだったか米国に行くんだったか記憶が曖昧だが)ので「お前にこれをやる」という事で譲り受けたのであった。今では毎年冬になると重宝している。
さて、いつものように「丹前」の歴史でも知ろうかと Wikipedia で調べてみたら、意外や意外、吉原の遊女勝山の衣装が発祥で、彼女に気に入られたい旗本連中を元に広まったのであるという。不思議だ。丹前というと、そういう色っぽい事からは遙か遠く離れた実用一本槍の衣服であるとばかり思っていたのに。
僕が所有している丹前は、実は友人の置き土産である。藍と青と灰色の縦縞で、あからさまに江戸前な代物だ。実家に住んでいる時はちゃんと僕専用の丹前(故郷では綿入れとも呼んだ)が用意されていたりしたものだが、いざ上京して独り暮らしを始めると、自分で丹前を買おうという気にはなかなかなれずに、そのまま月日は流れたのであった。それがある日、友人が地元に帰る(んだったか米国に行くんだったか記憶が曖昧だが)ので「お前にこれをやる」という事で譲り受けたのであった。今では毎年冬になると重宝している。
さて、いつものように「丹前」の歴史でも知ろうかと Wikipedia で調べてみたら、意外や意外、吉原の遊女勝山の衣装が発祥で、彼女に気に入られたい旗本連中を元に広まったのであるという。不思議だ。丹前というと、そういう色っぽい事からは遙か遠く離れた実用一本槍の衣服であるとばかり思っていたのに。
千の風になって
昨年末の事。恒例の紅白歌合戦で秋川雅史が歌う「千の風になって」を聴いた。僕は全然知らなかったのだけれど、世界中で知られる詩に新井満が曲と訳詞をつけた歌であるらしい。聴いていて、不覚にも家族の手前で涙を流しそうになった。映像の中でも紹介されているように、この詩の起源は作者不詳と認識されているようなのだが、色々と探してみると諸説あるようである。詩の内容を読んでいると、何となく神道に近いような気もする事から、個人的にはネイティヴ・アメリカンの民話から出たのではないだろうかと思っている。
「あなたがわたしを思うのならば、わたしはいつでもここにいます。」というような文を何処かで読んだ事があるような気がするのだけれど、あれは一体何の文章だったのだろうか。
「あなたがわたしを思うのならば、わたしはいつでもここにいます。」というような文を何処かで読んだ事があるような気がするのだけれど、あれは一体何の文章だったのだろうか。
- 千の風になって(新井満のHPより)
触手
夜、漆黒の帳に覆われた空に白い雲が浮かんでいる。世界に動きはない。僕は煙草に火を点け、星を探す。と、空の端っこに一点の光が明滅するのを見つけた。緩やかなスピードでこちら側に近づいてくるその光の正体は、果たしてヘリコプターであり、見上げるその姿は深海を遊泳する海老のようであった。光源は一つではなく、透き通るような赤と黄と青の光を、それぞれ違った間隔で明滅させている。
触手を伸ばして何かを探しているようでもあり、寸断なく緊張を張り巡らし、単独飛行を楽しんでいるようでもある。彼はゆっくりと私の真上を通り過ぎた。
触手を伸ばして何かを探しているようでもあり、寸断なく緊張を張り巡らし、単独飛行を楽しんでいるようでもある。彼はゆっくりと私の真上を通り過ぎた。
ポケット
秋の陽射しは慎み深く、雲高く。肌を舐め流れゆく風は、己の発する熱と声とを運び去っていく。彼方に見えるは引き千切られた雲と、その前を横切るヘリコプター。最近空ばかりを眺めるようになった。行き場のなくなったこの感情を、一体何処へ向かわせればよいのかと思案するも、それさえも宙に浮いて流されてしまう。
ポケットを増やそう。持て余した何かを取り敢えず仕舞っておけるようなポケットを。手に持ったまま、所在無くうろうろしていても仕方がない。いつかそれを取り出して、誰かに差し出す事がないとしても、取り敢えず今は仕舞っておこう。
ポケットを増やそう。持て余した何かを取り敢えず仕舞っておけるようなポケットを。手に持ったまま、所在無くうろうろしていても仕方がない。いつかそれを取り出して、誰かに差し出す事がないとしても、取り敢えず今は仕舞っておこう。






