DOG ON THE BEACH
ストップ!!ひばりくん! / 江口寿史
1980年代といえば何だったかなあ、と考えればストップ!!ひばりくん!を思い浮かべる。基本はギャグ漫画で割合下品な表現も多かった記憶があるのだが、少年漫画誌の中では異彩を放つポップさと、主人公的な登場人物大空ひばりの可愛らしさが突出していた印象だけが残っている。僕の中では江口寿史は漫画家ではなく、表現が大変恥ずかしいのだが「センスがポップでキュートな女の子を描くイラストレーター」として位置づけられている。事実、その後の作品を僕は一切読んでいない。左上に掲げた絵を観れば、その他は要らないかも知れないと思っていたりする。そう言えば、もう一人の主人公坂本耕作はさんざっぱら大空ひばりに振り回されるのだが、そういう関係性に何となく憧れていた事を思いだした。だがしかし、それから後に実人生で女性に振り回されるという事を幾度も経験する事になったが、やだね。実際の話。最初は必至で食らい付こうとするんだけど、途中でどうにも嫌になってしまって結局関係が解消される。飽きてくるからかも知れないけどさ。僕には向いていない。
余談だけれど、ルパン三世と名探偵コナンのコラボレーションが話題になっているみたいで、ルパンは良いけどコナンは別に観たくないなあと思っていたところ、そう言えばその昔に週間少年ジャンプ誌上で、連載を持っている漫画家全員で一話限りの漫画を描くという企画があった。内容なんか殆ど忘れているが、江口寿史が「あんたの描く女の子は可愛いね〜」と強面の男に脅されている場面と、ラストで法被を着てリヤカーを引いた山崎銀次郎のような男があっさりと問題を解決するという(本宮ひろ志が良いとこ取り)場面を覚えている。
- Last Modified : 2009-01-29
水と人の親和性
- 2008-04-09
- Category - People
- Tag - psychology / comic / literature / environment
羽海野チカの " 3月のライオン " を読んでいたらこんな場面が在った。事故で両親と妹を亡くした17歳でプロ棋士の主人公は、自宅の近所(モデルとしては月島)を流れる河を眺めながらこう考える。
ただ、頭の中がごちゃごちゃして一体全体何から手を付けて良いのか、更に進んでもう何もしたくないと思っているような時には、河の流れを眺めて過ごせば幾らかは気が楽になるような気がする。言葉を換えるならば、有効な自分の緩め方であると思う。
河が好きだ。好きなものなんてそんなにはないけど・・・。水がたくさんあつまった姿を見ていると、ぼうっとして頭がしんとする。よく解る表現である。川面をじっと眺めていると次第に周囲の音や匂いやその他の感覚が少しずつ遠のいて頭の中がとても静かになる。僕は生まれてこの方河の近くにしか住んだ事がないので、それだけ親しみも在るし懐かしさもある。しかしそれだけでは説明出来ない何とも言いようのない感覚に陥ってしまうのである。それが物質としての水そのものにその影響力が在るのか、それとも水の流れにあるのか、今を持ってよく解らない。
ただ、頭の中がごちゃごちゃして一体全体何から手を付けて良いのか、更に進んでもう何もしたくないと思っているような時には、河の流れを眺めて過ごせば幾らかは気が楽になるような気がする。言葉を換えるならば、有効な自分の緩め方であると思う。
健康優良不良少年
- 2007-04-21
- Category - Art
- Tag - comic / motorcycle
AKIRA を久しぶりに読み返す。どれくらい振りだろうか。6巻を1993年3月に初版で発売していて、その発売を心待ちにしていた記憶がある。夜中までかかって一気読みして、その後も眠れなくなった。いつまで経っても刺激の多い漫画である。さて、バイクに跨り疾走する不良少年とは王道中の王道(解りやすいという意味で)であるが、何故にこうも憧れてしまうのだろうか。思えば優良少年にも不良少年にも成り損ねた僕は、中途半端なままで少年期を過ごした。友達の兄貴や小学校の頃に一緒に野球をして遊んでいた友人達は何故かしら半数以上が不良になってしまい、夜毎にバイクを乗り回していた。当時の僕は崩れ始めの時期で、不良品と言えばそうだったのだが彼等のような格好良さもなく、ただただ燻り続けていた。つまり外の世界へ出て行く事が出来なかったのである。今思えば不健康極まりない状態だ。バイクの疾走とはつまり行き場のない欲求を霧散する或る種の活路であったのだ。後年、中型の免許を取得し実際に自分で走ってみてよく解った。走っているだけで、自分の中に鬱積した実体の無い不快物質を遙か後方に置き去りにする事が出来るのである。
近頃、何年も前にバイクを降りたはずの古い友人達が再びバイクを買ったと聞いた。息子が生まれたばかりなのに、中古で買った SR400 のマフラーを純正に換える事(正直この部分は理解しかねる)で頭が一杯のヤツとか。長女が幼稚園に上がったばかりなのに、愛車の交換部品を確保する為に同じ車種のジャンク品を買うヤツとか。
僕もまたバイクに乗りたいなあ、と思う。何ならこの際大型の免許取ろうかな、とも思う。しかし今以上にやる事増やしても困るなあ、とも思うのである。
すっかり AKIRA とは関係の無い話になって仕舞った。強引に纏めると、不良少年はずっと居なくならないだろうし、不良少年に憧れる少年(だった人も)も居なくならないのだろうな。
桜坂
東京は昨日から桜が満開であった。しかしながら昨日は所用で出かける事がままならず、本日のみの桜行脚だ。今日足を運んだのは東京は大田区に在る桜坂。東急多摩川線の沼辺駅から歩いて間もない場所に在る。福山雅治の歌で有名だし、タモリの「TOKYO坂道美学入門」でも紹介されているので、一度は行ってみたかったのである。
坂の中途に掛けられた橋の上から: 両脇の高い位置に桜の木が植えられていて、道路に追い被さるように花が咲き乱れている。この「桜が自分に覆い被さってくる」という感覚は実に良い。まあ、実際には道路は車道しかないので其処を歩く訳には行かないので非常に残念ではあるのですが。両側の高い位置にある歩道の横には住宅が建ち並んでいるので、其処の住人及び招待客達が駐車場にテーブルと椅子を並べて花見と洒落込んでいました。こういうのは地元の人達の特権ですね。羨ましい。しかしながら、此処の桜は車で坂を登ったり降りたりしながら観るのが一番美しいような気もします。
余談ですが、此処数週間の間、僕の頭の中は「桜祭り」でありました。桜に関する歌を色々聴いたり、WEBの彼方此方で桜の画像を漁ったり、どういう訳だか解りませんが本当にもう桜色の花びらで一杯だったのです。
坂の中途に掛けられた橋の上から: 両脇の高い位置に桜の木が植えられていて、道路に追い被さるように花が咲き乱れている。この「桜が自分に覆い被さってくる」という感覚は実に良い。まあ、実際には道路は車道しかないので其処を歩く訳には行かないので非常に残念ではあるのですが。両側の高い位置にある歩道の横には住宅が建ち並んでいるので、其処の住人及び招待客達が駐車場にテーブルと椅子を並べて花見と洒落込んでいました。こういうのは地元の人達の特権ですね。羨ましい。しかしながら、此処の桜は車で坂を登ったり降りたりしながら観るのが一番美しいような気もします。余談ですが、此処数週間の間、僕の頭の中は「桜祭り」でありました。桜に関する歌を色々聴いたり、WEBの彼方此方で桜の画像を漁ったり、どういう訳だか解りませんが本当にもう桜色の花びらで一杯だったのです。
最終電車
友人夫婦に招待を受け、苺タルトを手土産に部屋へお邪魔する。当面の目的というかメインの用事は楠本まきの「Kiss XXXX」を読ませて貰う事。大和撫子かあ、大和撫子ねえ、あまり想像出来ないや。それは最早男が想定するものではなく、女が選択する生き方なのだろうな。しかしこんな風に書いていて、パンク(及びニューウェイブ)と大和撫子が繋がるとは誰も想像しないだろうな。これは、この漫画に登場する或る女の子の態度や立ち居振る舞いに、大和撫子たる要素が多分に含まれているという友人の説である。
それと今日は「おいパンク」なる言葉を初めて耳にした。20年前には「おいおい」なんて拳振ってる連中なんて居なかった。皆酔っ払って垂直にジャンプして着地でよろけて壁にぶつかって床に倒れていただけだった。
漫画読んでタルト食べてハーブティー飲んでビデオ観てカレー食べてシャンパン呑んで、その帰り道。JR山手線右回り最終電車。思ったより少ない人々の影がホームに散らばっていた。滑り込んでくる電車の灯りは目映く、これから皆を家へ連れ帰ってくれる。光の中へ乗り込む人々。電車は動き出し線路を軋ませる。友人の部屋で花開いたベルガモットの枝を一振り切り分けて貰った。バックパックに突っ込んだその枝が、花はつけていないはずなのに香ってくる。車窓には闇と、寂しげな原色の光が流れていく。
日暮里駅で京成線に乗り換える。夜の駅のホームを眺めていると、主人公の居ない舞台劇を見ているかのような気分になる。照明の下、人々は同じホームに居合わせていても、それぞれ別な時間を過ごしている。彼等に共通するのは今この瞬間このホームに居るという事実のみ。普段に属する社会も、行き先も、もしかすると使う言葉さえも違う。
既に最終列車の終わった上りの線路では、保線工事を行う工事夫達が投光器から溢れる強い光の中で立ち働いている。彼等の息は白い。それがかけ声と共に吐き出される。やがて下りの最終電車が到着し、僕はそれに乗り込む。今まで何処でどうしていたのか、雑多な人々が疲れた顔をして座席に沈んでいたり、自動扉の戸口にもたれかかっていたりする。相変わらずベルガモットの香りが鼻を擽る。窓の外へ目を遣ると、驚いた事に沿線に在るフットサルのコートでは、もう若くはない男達が走り回っていた。
やがて車窓を横切る光は減少し、間もなく僕が降りる駅へと到着する。そこは僕が帰るべき場所であるのだが、ふと考える。二人で居て気詰まりなのと、独りで居て気詰まりなのはどちらが辛いのだろうか。どちらも経験しているはずなのに、いざ比べるとなるとよく思い出せない。部屋に辿り着いた僕は、バックパックからベルガモットを取りだし、洗面所で水に浸しておく事にした。
それと今日は「おいパンク」なる言葉を初めて耳にした。20年前には「おいおい」なんて拳振ってる連中なんて居なかった。皆酔っ払って垂直にジャンプして着地でよろけて壁にぶつかって床に倒れていただけだった。
漫画読んでタルト食べてハーブティー飲んでビデオ観てカレー食べてシャンパン呑んで、その帰り道。JR山手線右回り最終電車。思ったより少ない人々の影がホームに散らばっていた。滑り込んでくる電車の灯りは目映く、これから皆を家へ連れ帰ってくれる。光の中へ乗り込む人々。電車は動き出し線路を軋ませる。友人の部屋で花開いたベルガモットの枝を一振り切り分けて貰った。バックパックに突っ込んだその枝が、花はつけていないはずなのに香ってくる。車窓には闇と、寂しげな原色の光が流れていく。
日暮里駅で京成線に乗り換える。夜の駅のホームを眺めていると、主人公の居ない舞台劇を見ているかのような気分になる。照明の下、人々は同じホームに居合わせていても、それぞれ別な時間を過ごしている。彼等に共通するのは今この瞬間このホームに居るという事実のみ。普段に属する社会も、行き先も、もしかすると使う言葉さえも違う。
既に最終列車の終わった上りの線路では、保線工事を行う工事夫達が投光器から溢れる強い光の中で立ち働いている。彼等の息は白い。それがかけ声と共に吐き出される。やがて下りの最終電車が到着し、僕はそれに乗り込む。今まで何処でどうしていたのか、雑多な人々が疲れた顔をして座席に沈んでいたり、自動扉の戸口にもたれかかっていたりする。相変わらずベルガモットの香りが鼻を擽る。窓の外へ目を遣ると、驚いた事に沿線に在るフットサルのコートでは、もう若くはない男達が走り回っていた。
やがて車窓を横切る光は減少し、間もなく僕が降りる駅へと到着する。そこは僕が帰るべき場所であるのだが、ふと考える。二人で居て気詰まりなのと、独りで居て気詰まりなのはどちらが辛いのだろうか。どちらも経験しているはずなのに、いざ比べるとなるとよく思い出せない。部屋に辿り着いた僕は、バックパックからベルガモットを取りだし、洗面所で水に浸しておく事にした。
茗荷谷の坂
- 2007-01-23
- Category - Days
- Tag - slope / environment / tokyo
坂を歩くなら文京区だろうと思い、池袋駅から東京メトロ丸の内線に乗り換えて茗荷谷へ。駅から外へ出ると、予想していたより街並みが近代化されており、それが気に入らないと言えばそうなのだが致し方ない。何も僕の好みに従って街が作られている訳ではない。
湯立坂: 地下鉄の駅から出て北西へ。なだらかな坂道と緩やかな坂道。その両側に木々が生い茂っている。坂道の途中に何処その不動産会社が計画している多層階建てマンションの建設に反対する野立て看板が立っていた。見慣れた美しい景観が失われるのを恐れる気持ちは解る。つい最近、僕が住む下町にもついに高層のマンションが建った。そのおかげでそれまで見渡せていた空の一部が遮られてしまうのである。それを見て人が感情的になるというのは今では十分に理解出来る。
網干坂: 小石川植物園の西側を通る坂道。植物園を囲むブロック塀が物々しい印象を受けるが、ブロックの創り出す垂直線に対して坂の勾配が認識しやすいので僕はなかなか好きである。写真に撮った場合も判りやすい。それと塀に沿って放置された自転車が侘びし気に見えてそれが良い感じである。
氷川坂: 先ほどの網干坂を登りきって、左に回るとこの坂が在る。最初は面白くも何ともないが坂下に近づくにつれて傾斜がきつくなり楽しくなってくる。写真は坂の途中に建つ民家。庭木の枝を建物の前面に這わせているのが面白い。思うのだが、坂の途中に建つ家に住むのはどういう気分だろう。窓から顔を出せば坂下を見下ろす事が出来て、玄関を一歩外へ出ればそこは傾斜する大地である。実際にそういう環境で育った人に出会った事がないのでよく判らないが、その事は人の物凄く基本的な部分に影響しそうな気がする。
播磨坂: こういった整備された道幅の広い坂は特に好きでも何でもないのだが、この坂は長く続くのでそれを歩いている時の体感は気に入った。観るのではなく、傾斜を身体で感じ続けるという事に坂道の美が伺えるのである。
久しぶりに坂を鑑賞した訳だが、僕の習性として一旦歩き出すと疲れても何故かそのまま歩き続けてしまう。途中で脚を止め、辺りを見回せば面白いものでも見つけられるのだとは思うが、どうしてもそれが出来ない。これを貧乏性と言うのかせっかちと言うのか、何れにせよ落ち着きがないのである。
湯立坂: 地下鉄の駅から出て北西へ。なだらかな坂道と緩やかな坂道。その両側に木々が生い茂っている。坂道の途中に何処その不動産会社が計画している多層階建てマンションの建設に反対する野立て看板が立っていた。見慣れた美しい景観が失われるのを恐れる気持ちは解る。つい最近、僕が住む下町にもついに高層のマンションが建った。そのおかげでそれまで見渡せていた空の一部が遮られてしまうのである。それを見て人が感情的になるというのは今では十分に理解出来る。
網干坂: 小石川植物園の西側を通る坂道。植物園を囲むブロック塀が物々しい印象を受けるが、ブロックの創り出す垂直線に対して坂の勾配が認識しやすいので僕はなかなか好きである。写真に撮った場合も判りやすい。それと塀に沿って放置された自転車が侘びし気に見えてそれが良い感じである。
氷川坂: 先ほどの網干坂を登りきって、左に回るとこの坂が在る。最初は面白くも何ともないが坂下に近づくにつれて傾斜がきつくなり楽しくなってくる。写真は坂の途中に建つ民家。庭木の枝を建物の前面に這わせているのが面白い。思うのだが、坂の途中に建つ家に住むのはどういう気分だろう。窓から顔を出せば坂下を見下ろす事が出来て、玄関を一歩外へ出ればそこは傾斜する大地である。実際にそういう環境で育った人に出会った事がないのでよく判らないが、その事は人の物凄く基本的な部分に影響しそうな気がする。
播磨坂: こういった整備された道幅の広い坂は特に好きでも何でもないのだが、この坂は長く続くのでそれを歩いている時の体感は気に入った。観るのではなく、傾斜を身体で感じ続けるという事に坂道の美が伺えるのである。久しぶりに坂を鑑賞した訳だが、僕の習性として一旦歩き出すと疲れても何故かそのまま歩き続けてしまう。途中で脚を止め、辺りを見回せば面白いものでも見つけられるのだとは思うが、どうしてもそれが出来ない。これを貧乏性と言うのかせっかちと言うのか、何れにせよ落ち着きがないのである。
ヘルタースケルター / 岡崎 京子
- 2004-10-11
- Category - Art
- Tag - philosophy / comic
誰か(それが特定であれ不特定であれ)の視界から外れる事、つまり忘れられる事への恐怖は、人に驚くほどの刹那的な行動をとらせてしまう。勿論個人差はあるし、それとは逆に視界から外れる事に安堵し、それを望む人も居る。これらを「欲望」という言葉で表すのは少々違和感があるのだが、本作に倣って「欲望」としておく。欲望に駆られた人間の姿は、グロテスクである。自分の欲望以外には何も見えなくなっているのだから当たり前だが、周囲に不安や不快感を呼び起こして、それでも闇雲に前へ進もうとする。「欲望」を止める事は出来ない。何しろ「欲望」という力に「人間」がドライヴされているのだから。周囲の人間はただ呆然とたちすくみ、眺めている他はない。その姿を見る事に耐えられない人間は、目を、耳を塞いで時が過ぎ去るのを待つのみだ。この本の最後。To be continued. になっているが、岡崎京子はこの後の構想があったのだろうか。あるのならば是非読みたい。この本は事故に遭う直前に執筆されていたものらしい。彼女の回復の吉報も耳にしているので、何年後になるのかは判らないが、首を長くして待つ事にしよう。因みに「欲望が人間をドライヴする」という行は、何処かの小説の一節からのパクりだ。






