銀座の商人が、畏れ多くも天皇の宸襟を悩ませたという事件もあった。明治二十二年、博覧会の開会式に臨席されるために上野に行幸の途次、天皇はとある銀座の店の看板に目を止められた。読めない文字があったからである。店主の名前ははっきりわかるが、商品の名前が読めない。侍従を遣わして御下問になったところ、戻ってきた侍従が報告するには、問題の品物はカバンであるとう。店主は「革」と「包」とを組み合わせ、これに、物を入れる包みという意味の中国語、「きゃばん」の音を当てたのである。陛下じきじきの御下問に恐縮した店主は、以後、看板にカナを振ることにした。店は有名になり、同時に「鞄」という字も日本語として定着した。件の看板は、残念なことに震災で焼けてしまった。

エドワード・サイデンステッカー著『東京 下町山の手』ちくま学芸文庫 1992年 p.274