DOG ON THE BEACH

A season passes. A castle can be seen. Where is a soul without a wound ?

 銀座の商人が、畏れ多くも天皇の宸襟を悩ませたという事件もあった。明治二十二年、博覧会の開会式に臨席されるために上野に行幸の途次、天皇はとある銀座の店の看板に目を止められた。読めない文字があったからである。店主の名前ははっきりわかるが、商品の名前が読めない。侍従を遣わして御下問になったところ、戻ってきた侍従が報告するには、問題の品物はカバンであるとう。店主は「革」と「包」とを組み合わせ、これに、物を入れる包みという意味の中国語、「きゃばん」の音を当てたのである。陛下じきじきの御下問に恐縮した店主は、以後、看板にカナを振ることにした。店は有名になり、同時に「鞄」という字も日本語として定着した。件の看板は、残念なことに震災で焼けてしまった。
エドワード・サイデンステッカー著『東京 下町山の手』ちくま学芸文庫 1992年 p.274

「花柳界」とう表現はもともと李白の詩句に由来し、花街の女性を花と柳に譬えたたものだが、やかましく言う人はこの二つを区別する。今ではほとんど忘れられているけれども、元来、花は遊女、柳は芸者を指したという。ただ、この区別が広く行われたことは一度もなかったし、かりに理屈の上では認めても、実際にはたちまち曖昧になってしまった。そもそも「芸者」という言葉は、日本語の中でいちばん定義のむずかしい単語の一つだ。荷風も芸者という言葉自体、それにこの言葉の指す観念もまた、殊に明治の山の手の色街では堕落したと嘆いている。なるほど芸者の中には、まるで修道女さながら禁欲的に芸に身を捧げる者もいたけれども、芸者とは名ばかり、なんの芸があるのかと問われれば困る者も多かった。こういう「芸者」は、値段さえ折り合えば身を売った。けれども江戸の花魁は、時には驚くほど高い教養と技芸を身につけていた。彼女たちの手になる絵や恋文が今も僅かに残っているが、そうしたものを見れば、その教養の高さは歴然としている。
 こうした曖昧さはあるものの、少なくとも江戸期の吉原では、客をもてなす手の込んだ手順の中で、芸者と花魁はそれぞれに別の役割を分担していた。お大尽の豪儀な一夜の歓楽のうち、芸者は宵のうちに歌と踊りを披露し、夜がふければ花魁の出番になるわけである。
 明治から大正へと進むにつれて、遊郭の芸者は次第に衰え、遊郭以外の芸者のほうが盛んになる。遊郭はただ色を買うだけの場所になってゆく傾向が強く、もう少し上品な楽しみを求める時には、金のある連中はむしろ料亭街に出かけ、芸者を呼ぶという形に変わってきたのだ。この変化がいちばんはっきり現れたのは引手茶屋の衰微だった。格の高い妓楼では直接には客を入れず、金のある客のほうでもいきなり登楼することなど考えない。まず茶屋に入って、そこで手筈が整えられる。当然、茶屋は芸者や幇間との結びつきが深かったし、伝統の仕来たりを守る上でも大きな役割を果たしていた。このお茶屋が衰微するにつれて、遊廓がただ売色だけの場所になっていったのも当然である。

エドワード・サイデンステッカー著『東京 下町山の手』ちくま学芸文庫 1992年 pp.231-232

 演歌師が初めて現れたのは明治の中頃、東京でのことだった。昭和の初期まではまだ姿を見かけたという。頭と足許だけは洋風で、山高帽と靴、それにいつでもヴァイオリンで弾き語りをしたけれども、そのほかは和服で街角に立ち、時事的な歌をうたって小銭をかせいだ。レパートリーには色恋の歌もあったが(ここから艶歌という当て字も生まれる)、最初はむしろ政治的、風刺的な歌がもっぱらだった。今でいうヒット曲に当たるものとして「松の声」というものがある。女学生のデカダンぶりを諷刺した歌で、これなどはむしろ艶歌とは正反対と言えるかもしれない。後に日本の代表的なテノールとなる藤原義江も、最初はこの「松の声」を歌った男に弟子入りし、まず演歌師として歌手生活を始めたのである。

エドワード・サイデンステッカー著『東京 下町山の手』ちくま学芸文庫 1992年 pp.225-226

 明治十二年の夏、グラント将軍夫妻が歌舞伎を見物した話はすでに紹介した。ただ、将軍自身はおそらく知らなかっただろうが、実は歌舞伎改良運動に一役買わされていたのである。この頃すでに、歌舞伎は相当大幅に社会的地位が高まっていた。もし将軍が幕府の賓客として来日していたとしたら、歌舞伎に案内するなどということは、誰一人夢にも考えなかったはずである。いや、接待にあたる武士自身、中にはこっそり芝居見物に出かける者もいただろうが、表向きは、芝居を見たことがあるなどとはおくびにも出さなかったにちがいない。歌舞伎は町人のものであって、別世界の出来事だったのである。歌舞伎を「改良」し、上流人士の鑑賞に耐える文化的活動とすることは、だから結局、歌舞伎を町人の手から取上げることにほかならない。
 グラント夫妻が訪れたのは新富座という劇場だったが、この小屋の経営にあたっていたのが十二代目守田勘弥で、明治初期の興行主としてもっとも革新に熱心な人物だった。歌舞伎の主な劇場三座は、例の天保の改革で浅草に移されて以来、維新当時まだそのままだったが、三つのうち、勘弥の座元をつとめる守田座が真先に浅草を脱出し、新島原の遊郭跡に移転して、名前もその町名に因んで新富座と改め、新時代の先駆けとなったのである。
 勘弥は前々から、劇場を市の中心に戻したいという野望を抱いていた。ただ、できれば隱密裡に実行したいと考えていた。浅草の残りの二座に後を追われたくなかったのである。というのも勘弥は、古い客層からできるだけ離れたいーーなかんずく、魚の仲買人連中のような古い贔屓筋とは縁を切りたいと考えていたからである。この連中は、歌舞伎の改良などには反対するに決っている。新富町を選んだのも、第一に新興の銀座に近かったこと、それに遊郭が廃止になって以後、目ぼしい施設はなにも出来ず、土地が空いていたということもあった。

エドワード・サイデンステッカー著『東京 下町山の手』ちくま学芸文庫 1992年 pp.201-203

 どんな国民も、自分たちは他国の人間とはちがっていると考えたがる。そしてもちろん、他国の連中より優れていると考えたがるのが通例である。けれども徳川の鎖国時代は、日本人は他国とのちがいを強調する機会がほとんどなかった。そこで日本人同士、おたがいの間のちがいを強調することになった。例えば江戸っ子は上方人とのちがいをしきりに口にし、上方人が江戸とのちがいを強調するより熱心だった。ひょっとすると、江戸っ子の劣等感の表われだっらのかもしれない。上方は天子様のお膝下だが、江戸は将軍様のお膝下でしかない。だが今日では、どうも大阪人のほうがちがいを気にしているようだ。

エドワード・サイデンステッカー著『東京 下町山の手』ちくま学芸文庫 1992年 p.200

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