DOG ON THE BEACH

A season passes. A castle can be seen. Where is a soul without a wound ?

 ここでジョバンコ氏は、アメリカでのタブーの意識を知る上で、貴重な資料を提供してくれている。セーラー服自体が水夫の仕事着を女子学生の制服に転用したものであるという経緯は、たしかに注目に値する。近年わが国で異常なほど注目されている「女子高生」への関心は、たんに若い女性への欲望ということだけでは語りきれない要素をはらんでいるからだ。そこには少なくとも服装倒錯的な嗜好が紛れ込んでいる可能性がある。さらに極論すれば、セーラー服と若い女性の組み合わせを愛好するという行為については、小児愛に服装倒錯、さらには同性愛的な嗜好などといった他形倒錯の傾向として分析することも不可能ではない。
 氏はまた「変身」にちても、次のように述べている。
「(戦闘美少女が変身することについて)たぶんそれは、幼く可愛い少女から成熟したタフな女性への変化だ。この二重人格性は、成人男性のオタクが少女に望むすべてをもたらす。それは彼女たちを完璧な存在にするのだ」。
「変身」が加速された成熟の隠喩である点は、私もまったく同意見である。

斎藤環著『戦闘美少女の精神分析』ちくま文庫 2006年 p.115

散歩する少年

 僕は二三日毎に、昼食後にスーパーへ買い物に出かける習慣があるのだけれど、去年の秋頃から一人の少年と度々すれ違ったり見かけたりするようになった。年の頃は十代の半ば、いつも黒っぽいジャージの上下を着ている。しかしそれはまったく同じものを着ているという訳ではなさそうで、色の濃さやデザインが少し違っていたり、寒くなるとネックウォーマーをしたりして変化している。履いてるスニーカーが違う事もある。たぶん黒が好きなのだろう。
 で、そんな少年が、平日昼間の決まった時間帯に散歩をしている。堂々とした歩き方ではないし、溌剌ともしていない。楽しそうではないが、トボトボ歩いている訳でもない。歩く事自体が目的で歩いているが、彼自身が今ひとつしっくり来ていないという印象がある。学校には行っていないのだろう。土日には見かけない気がするので、人目は避けているのかも知れない。一時的な不登校なのか。長患いした後のリハビリ期間なのか。それでも、その少年からは悲壮感のようなものが伝わってこないのは、決まった時間帯に散歩をしているという安定感だろうか。彼の実情に想像は及ばないけれども、何かしらの目的があって歩いているのだろうから、きっと大丈夫だよね、と思える。
 と、こんな事を勝手に悪い方へ想像しているが、もしかしたらあの若さで既にプログラマーとして自活しており、一日中座りっ放しでは身体に悪いので、日に一度の散歩くらいはしておかないとな、と考えているのかも知れない。どちらかと言えばそうであって欲しいが、実際がどうであるかなんて傍目からではとんと判らない。しかし、若い人が独りぼっちで行動している姿は、どうにも気になってしまうのである。

 おたくの多くは虚構にはまる自分自身をも客観視でき、かつそれをネタにして遊んでいるので、嫌悪感を抱かれる事すらもネタにできるんですよ。あ、もちろん合法的範囲内でですけどね。
 例えば、「スーパーで、『カードキャプチャーさくら』の絵本を買ったら、店員や周りの客に白い眼で見られた」などといった会話も日常的に行います。また、冒頭の「綾波等身大フィギュアで抜く」話で言えば、その横に堂々とローションを備えたまま、友人を部屋に通したりしている人が実在するわけです、これで何をしているか一目瞭然という。
 そう言えば、コミケで、スカトロ系のアニメ同人誌を売っている売り子さん、えらく誇らしげでした。しかも買う側も誇らしげに買って行きます(笑)。
 私が某パソコン通信のアニメ関係のボードのオフ会で、おたくの男性十数人で群れをなして新宿を歩いていた時、たまたまあれは歌舞伎町を歩いていた時だったんですが、風俗の客引きが現れたんですね。「可愛い娘いるよ」って。それに対して、常連メンバーの一人が「おれはセーラームーンの方がいいんだ!」って返して、客引きがおとなしく去って行ったのを見て、みんなで大爆笑したこともありました。
「そこまでやるか普通!」という内外の声は、むしろ敏感に入ってると思います。それらの声に応じて、またあれこれやって遊ぶ。この繰り返しです。
 私の知る限り、おたくの性生活の実体はきわめて健全、といって悪ければ平凡なものです。つまり、性欲のあり方として、健全かつ凡庸であり、パンピーとの差違は認められないんです。だいたい、実生活においてホモセクシュアルであったり、ロリコンであったりするおたくは、少なくとも私の知る範囲ではいませんね。おたく同士でつきあっている男女も珍しくありませんし、男性ならば、稼げるようになって、それなりに社会的地位もできると、ごく当たり前のように普通の女性と結婚していきますしね。まあ大塚英志センセイの言われるように、一般人より異性のお友達が多いかどうかは、よく知りませんが。ともかく一般におたくと性倒錯とはそんなに関係ないと思います。

斎藤環著『戦闘美少女の精神分析』ちくま文庫 2006年 pp.77-79

 ここに人々が決定的に見落としてきた問いがある。なぜおたくは、「現実に」倒錯者ではないのか。私の知る限り、おたくが実生活で選ぶパートナーはほぼ例外なく、ごくまっとうな異性である。個人的な印象では、おたく人生の「上がり」とは、異性のおたくパートナーとの結婚とみなされているふしがある。したがって私は、おたくにおいて決定的であるのは、想像的な倒錯傾向と日常における「健常な」セクシュアリティとの乖離ではないかと考えている(この意味からも宮崎勤は完全に特殊例だ)。ホモセクシュアルはおろか、真にロリコンであるおたくすら、きわめて少数派なのではないか。それは例えば、アニメのヒロインを偶像化しつつ、日常的には代替物としての現実の女性で我慢する、ということではない。彼らはここでも「欲望の見当識」をやすやすと切り替えているのだ。

斎藤環著『戦闘美少女の精神分析』ちくま文庫 2006年 pp.62-63

 自分のお気に入りの物語が不満な終わり方をするとき、おたくならどう動くか。ここにちょうど絶好のサンプルがある。後に詳しく触れる予定の『新世紀エヴァンゲリオン』というアニメは、ほとんどその結末のみによって社会的事件となった。ドラマの後半まで、それは見たこともないほど洗練された巨大ロボットアニメだった。ところが問題の最終話である。主人公が突如、延々と内面的葛藤を語りはじめ、そのあげく内面的に救済されて終わるというその結果に、ファンの大部分は激怒した。
 それで彼らは、作者である庵野秀明を直接に批判したか。もちろんそういう反応も多数あった。しかしその一方で、自分好みの『エヴァ』ストーリーを書き始めるファンが大量に出現したのだ。これこそが正しいおたくの反応と言うべきであろう。彼らは作者を必ずしも絶対視しない。たんなるファンの立場以上に、彼らは目利きであり批評家であり、作者自身でもありうる。このように受け手と送り手の差がきわめて小さく曖昧であることも、おたくの特徴の一つであろう。そう、その意味で、つまり虚構との向き合い方に限定してなら、大澤氏指摘こそが正当だ。おたくにあっては作者という超越的であるべき他者が、内面的他者の位置に限りなく接近させられるのである。

斎藤環著『戦闘美少女の精神分析』ちくま文庫 2006年 pp.52-53

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