DOG ON THE BEACH

A season passes. A castle can be seen. Where is a soul without a wound ?

 いずれにしても江戸に残った町人たちは、はたして天皇が東京に住まうことになるのかどうかわからなかった。経済活動が麻痺してしまっている以上、娯楽もまた、当然のことながら事実上活動を停止していた。慶応四年の初め、劇場は閉鎖され、吉原へ通う人もほとんどなかった。官軍は江戸を目ざして東上の途次にある。維新とはいいながら、これはやはり革命であり、この革命軍が旧体制の首都にたいしてどんな処置を取ろうとするのか、まだ誰にも知る由もない。江戸は、この新しい世界を誕生させるについてはなんの力も貸してはいなかったし、進軍してくる官軍のほうでもまた、江戸がこの西南諸藩軍の趣味や作法について、侮蔑の念しか抱いていないことはよく承知していた。江戸の町には、陰鬱な不安が立ちこめていた。
 江戸は待った。官軍は近づいていた。この時、官軍の兵士たちの歌った歌は、後にギルバート=サリヴァンのサヴォイ
・オペラの名作『ミカド』に、ミカドの軍隊の歌として借用されることになる。原曲は明治陸軍の創設者、大村益次郎の作曲と伝えられる。進軍は、まず静岡、ついで江戸で会談の行われている間、箱根の手前で一時止まった。会談の結果、江戸城を戦うことなく明け渡すことが決まった。春も終わろうとする頃、慶喜は江戸を離れ、その数日後、江戸城と江戸の町とが、流血を見ることもなく明け渡された。官軍はすでに、東海道では品川宿、中仙道では板橋の宿まで達していた。

エドワード・サイデンステッカー著『東京 下町山の手』ちくま学芸文庫 1992年 p.48

 日本橋をはじめとして、一般に下町は保守的である。もちろん、町人を最下層に置く幕府の厳しい身分制度にたいして、不満はあった。この不満をぶつける手段として、下町の文芸や芝居には諷刺的性格が強く、山の手の武士階級を揶揄して溜飲をさげる気風もあったけれども、幕府体制の脅威となるほど強力なものではない。江戸っ子は将軍様のお膝下にいることを誇りとし、そして代々の将軍のほうでもまた、催事の折など、町人にたいして鷹揚に配慮を見せるだけの知恵はあった。やがて、実際に幕府の脅威となる勢力が現れることになるが、これは遙か西南の地方から迫った脅威であって、江戸っ子は、この田舎侍たちが新しい権力者として乗り込んできた時、旧幕府時代の武士にたいするよりもはるかに強い憤懣の念を抱いた。
 江戸っ子は独りよがりだと批判することはできるかもしれない。いわばプロの江戸っ子の末裔は今日でもいるけれども、この手の連中の自尊心はむやみに強く、ほとんど不作法とさえ呼べるだろう。世界には下町と下町以外という区別しかなく、そしてもちろん、下町以外はものの数にも入らない。谷崎潤一郎は生粋の江戸っ子で、明治十九年、日本橋の商家の生まれだけれども、仲間の江戸っ子を好まなかった。谷崎に言わせれば、江戸っ子は弱虫で、始終不平ばかりこぼし、概して実行力がない。しかし江戸時代の下町は、きわめて洗練された高度の趣味を具えていた。その後の時代の推移を見れば、この高度の洗練を維持してゆくには排他性が必要だったことも頷ける。とすれば、この程度の欠点はむしろ安い代償と言うべきかもしれない。

エドワード・サイデンステッカー著『東京 下町山の手』ちくま学芸文庫 1992年 pp.24-26

 私がもの心ついた頃に、親父が凝っていたのは、たしか釣りだったと思う。

 (中略)

 考えてみるとこの後も親父の道楽は続く。
 戦時中には日本刀、戦後は時計、ライターの収集、骨董あさり(これすべて能書きつきだったので、よく憶えている)。とは言っても、名品をあさるなどというものではなく、身分相応なものではあったけど、しかしこうやって思い出してみると我が親父は、ずい分好き勝手な人生をやってきたことがわかる。
 親父が死ぬ直前にぼそっと呟いた一言がずっと気になっている。
「アア、オモシロイコトナンテ、ナンニモナカッタ」
 あれは一体何だったんだろう。
 単に親父がもっと道楽をしとけばよかったと思った欲ばりな一言だったのか、それとも人生、中途半端な道楽なんてものでは心が満たされることはないぞ、という我が人生へのやや口惜しげな感慨、そして子供達への言いおきだったのか、或いは単に嫌味な最後っ屁だったのか。
 このどれもが有り得る親父だったから、私は未だに困惑の日々が続いている。

渡辺文雄著『江戸っ子は、やるものである。』PHP文庫 1995年 pp.157-160

 昔の酒屋には計り売りの酒というのがあったが今の酒屋にはない。今の酒屋をのぞくと銘柄ものの瓶がずらりと並んでいるばかりである。昔の酒屋にもそりゃ銘柄ものもあったけれど、そんなものは、特別のおつかいものに使うくらいで、普段は計り売りの酒を飲んでいた。
 この計り売りの酒というのがそこの酒屋の酒ということで、つまりそれぞれの酒屋の親父が、それぞれのルートや顔で、安い地酒を数種類集めてきて、それを各自の味覚臭覚でブレンドする。つまり酒屋一軒一軒が、みな違った味わいの酒を樽に入れて計り売りしていたということである。
 こんな楽しいことが、今では酒税法の関係でできなくなってしまったと聞いたことがある。
 酒屋それぞれのオリジナルの計り売りの酒だから、いくや気安くつき合っている酒屋でも、それだけでその店から買うというわけにはいかない。酒飲みは、それぞれの好みの酒屋を探してそこから買うということになる。

渡辺文雄著『江戸っ子は、やるものである。』PHP文庫 1995年 pp.151-152

 ところで、「そば屋の風邪薬」というものをご存知だろうか。
 ちょっとした風邪をひいて鼻をグチュグチュいわせていると、どてらをかかえた親父に「おい! 来い」とそば屋に連れていかれる。
 そば屋の壁にはたくさんの薬包みがはられた「そば屋の風邪薬」と大書きされた紙が下げられていて、その一つがもぎとられ、私の手に渡される。しぶっている私に、「おい! のめ!」とちょっとこわい顔をして「かけともり」とそばを注文する。風邪薬を飲んで、熱々のかけをすすり出すと、背中にどてらがかけられる。そんな私を、もりを肴にチビチビとやりながら親父はじっと見つめている。そのかけを食べ終える頃には、額にじっとりと汗がにじむ。
「さ、早く帰って寝ろ! どてらかぶってかけだして行くんだぞ!」
 親父の方は、いつか話し相手をみつけて、お銚子のおかわり。
 この風邪薬、とっても効いた覚えがある。病院の風邪薬ではなくて、そば屋の風邪薬。
 できればそば屋の風邪薬で風邪を治したいと思うのは、中年男のセンチメンタルだと、やはり言われてしまうのだろうか。

渡辺文雄著『江戸っ子は、やるものである。』PHP文庫 1995年 pp.88-89

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