DOG ON THE BEACH

A season passes. A castle can be seen. Where is a soul without a wound ?

Author: doggylife (page 1 of 191)

 小林清親は弘化四年(一八四七年)本所に生まれた。現在の両国駅の近く、北斎の生地からそう遠くない所である。父は幕府蔵方の組頭をしていた。大勢の兄弟の末っ子だったにもかかわらず家督を継ぎ、慶喜に従って静岡に下る。蟄居中の将軍自身はけっして貧窮の生活ではなかったけれども、家来の中には生活に窮した者も多く、清親も寄席に出るなどして食い繋いだらしい。しかしついに東京に帰ることに決め、その帰京の途中、横浜でチャールズ・ワーグマンの指導を受けて洋画の技法を学んだ。ワーグマンは、もともとイギリスの海軍士官だったが、『絵入りロンドン新聞』の特派員として来日し、清親のほかにも高橋由一などに洋画を教えて、日本洋画の育成者となった人物である。貪欲にあらゆるものを吸収しようとした清親は、同時に下岡蓮杖に写真術を学び、さらに日本画まで習ったという。下岡蓮杖は幕末・明治の代表的な写真家で、日本の写真技術の先駆者となった人である。
 清親が版画家として仕事をしたのは、主として明治九年から一四年まで、僅かに五年間だった。その後も時折は仕事をしたけれども、集中して制作したのはこの五年間で、その間に東京の風物を百点描いた。この多産な時期の最後の作品となったのは明治一四年の神田の大火で、彼自身の家もこの火事で焼けてしまった。ちなみにこれは、明治の東京では最大の火災だった。

エドワード・サイデンステッカー著『東京 下町山の手』ちくま学芸文庫 1992年 pp.78-79

 いずれにしても江戸に残った町人たちは、はたして天皇が東京に住まうことになるのかどうかわからなかった。経済活動が麻痺してしまっている以上、娯楽もまた、当然のことながら事実上活動を停止していた。慶応四年の初め、劇場は閉鎖され、吉原へ通う人もほとんどなかった。官軍は江戸を目ざして東上の途次にある。維新とはいいながら、これはやはり革命であり、この革命軍が旧体制の首都にたいしてどんな処置を取ろうとするのか、まだ誰にも知る由もない。江戸は、この新しい世界を誕生させるについてはなんの力も貸してはいなかったし、進軍してくる官軍のほうでもまた、江戸がこの西南諸藩軍の趣味や作法について、侮蔑の念しか抱いていないことはよく承知していた。江戸の町には、陰鬱な不安が立ちこめていた。
 江戸は待った。官軍は近づいていた。この時、官軍の兵士たちの歌った歌は、後にギルバート=サリヴァンのサヴォイ
・オペラの名作『ミカド』に、ミカドの軍隊の歌として借用されることになる。原曲は明治陸軍の創設者、大村益次郎の作曲と伝えられる。進軍は、まず静岡、ついで江戸で会談の行われている間、箱根の手前で一時止まった。会談の結果、江戸城を戦うことなく明け渡すことが決まった。春も終わろうとする頃、慶喜は江戸を離れ、その数日後、江戸城と江戸の町とが、流血を見ることもなく明け渡された。官軍はすでに、東海道では品川宿、中仙道では板橋の宿まで達していた。

エドワード・サイデンステッカー著『東京 下町山の手』ちくま学芸文庫 1992年 p.48

 日本橋をはじめとして、一般に下町は保守的である。もちろん、町人を最下層に置く幕府の厳しい身分制度にたいして、不満はあった。この不満をぶつける手段として、下町の文芸や芝居には諷刺的性格が強く、山の手の武士階級を揶揄して溜飲をさげる気風もあったけれども、幕府体制の脅威となるほど強力なものではない。江戸っ子は将軍様のお膝下にいることを誇りとし、そして代々の将軍のほうでもまた、催事の折など、町人にたいして鷹揚に配慮を見せるだけの知恵はあった。やがて、実際に幕府の脅威となる勢力が現れることになるが、これは遙か西南の地方から迫った脅威であって、江戸っ子は、この田舎侍たちが新しい権力者として乗り込んできた時、旧幕府時代の武士にたいするよりもはるかに強い憤懣の念を抱いた。
 江戸っ子は独りよがりだと批判することはできるかもしれない。いわばプロの江戸っ子の末裔は今日でもいるけれども、この手の連中の自尊心はむやみに強く、ほとんど不作法とさえ呼べるだろう。世界には下町と下町以外という区別しかなく、そしてもちろん、下町以外はものの数にも入らない。谷崎潤一郎は生粋の江戸っ子で、明治十九年、日本橋の商家の生まれだけれども、仲間の江戸っ子を好まなかった。谷崎に言わせれば、江戸っ子は弱虫で、始終不平ばかりこぼし、概して実行力がない。しかし江戸時代の下町は、きわめて洗練された高度の趣味を具えていた。その後の時代の推移を見れば、この高度の洗練を維持してゆくには排他性が必要だったことも頷ける。とすれば、この程度の欠点はむしろ安い代償と言うべきかもしれない。

エドワード・サイデンステッカー著『東京 下町山の手』ちくま学芸文庫 1992年 pp.24-26

 私がもの心ついた頃に、親父が凝っていたのは、たしか釣りだったと思う。

 (中略)

 考えてみるとこの後も親父の道楽は続く。
 戦時中には日本刀、戦後は時計、ライターの収集、骨董あさり(これすべて能書きつきだったので、よく憶えている)。とは言っても、名品をあさるなどというものではなく、身分相応なものではあったけど、しかしこうやって思い出してみると我が親父は、ずい分好き勝手な人生をやってきたことがわかる。
 親父が死ぬ直前にぼそっと呟いた一言がずっと気になっている。
「アア、オモシロイコトナンテ、ナンニモナカッタ」
 あれは一体何だったんだろう。
 単に親父がもっと道楽をしとけばよかったと思った欲ばりな一言だったのか、それとも人生、中途半端な道楽なんてものでは心が満たされることはないぞ、という我が人生へのやや口惜しげな感慨、そして子供達への言いおきだったのか、或いは単に嫌味な最後っ屁だったのか。
 このどれもが有り得る親父だったから、私は未だに困惑の日々が続いている。

渡辺文雄著『江戸っ子は、やるものである。』PHP文庫 1995年 pp.157-160

 昔の酒屋には計り売りの酒というのがあったが今の酒屋にはない。今の酒屋をのぞくと銘柄ものの瓶がずらりと並んでいるばかりである。昔の酒屋にもそりゃ銘柄ものもあったけれど、そんなものは、特別のおつかいものに使うくらいで、普段は計り売りの酒を飲んでいた。
 この計り売りの酒というのがそこの酒屋の酒ということで、つまりそれぞれの酒屋の親父が、それぞれのルートや顔で、安い地酒を数種類集めてきて、それを各自の味覚臭覚でブレンドする。つまり酒屋一軒一軒が、みな違った味わいの酒を樽に入れて計り売りしていたということである。
 こんな楽しいことが、今では酒税法の関係でできなくなってしまったと聞いたことがある。
 酒屋それぞれのオリジナルの計り売りの酒だから、いくや気安くつき合っている酒屋でも、それだけでその店から買うというわけにはいかない。酒飲みは、それぞれの好みの酒屋を探してそこから買うということになる。

渡辺文雄著『江戸っ子は、やるものである。』PHP文庫 1995年 pp.151-152

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