封切られたばかりの映画。日比谷シャンテシネで観てきた。

 冒頭は、離婚調停の手続きの場面から。調停離婚した男女が同じ部屋に泊まるのか、そして直ぐさまそこで寝てしまうのか、と不思議に思いながら観ていたら、いきなり無理矢理事に及ぶセックスシーン。迂闊にも前後左右を女性に囲まれる(全席指定の為に自分で選べない)席に座ってしまった僕は死んだフリをしながら、少しだけ後悔していた。何故って落ち着いて観れないのだもの。

 此処で紹介されているように、オゾンは別れに至った経緯というかきっかけになった事柄に興味を持って撮ったと言及しているが、主人公の男がしでかす失態はありがちなエピソードだし(但し僕はその度に死んだフリをしなくてはならなかったが)、非常に淡々と物語が進んでいくので何だか釈然としない。しかし、よくよく考えてみると、確かにそうである。かつては浮き立つような喜びと興奮を共有していても、小さな違和感が重なり、それが堆く降り積もっていけば、かつての喜びの量を超えてしまい、ついには「これ以上一緒に居ても良い事など何も起こらないのではないか。」などと考え始める。そうなってしまうと、後はもうタイミングを計るだけの日々が続く事になる。

 話が逸れた。僕は未だこの作家の作品を二本しか観ていないので、浅はかな判断であるのかも知れないが、僕はフランソワ・オゾンという人は、映像の美しさと(得に女性の)感情の揺れを巧みに描く作家だと思っている。例えば、冒頭の強姦紛いのセックスシーンでも、主人公の男女の肉体の美しさが私の目を捉えて離さない。例え周りの女性達が自分の腕をさすったり、尻を動かしたりして、僕を無駄に緊張させ居たたまれない気分にさせたとしても、僕は隔離された世界の住人となり、その映像の美しさにひたすらに見入っていた。