昨日、村上護著 ” 四谷花園アパート ” を読み終えたのだけれど、以前にも同氏の著書 ” ゆきてかへらぬ ” にも書かれていた小林秀雄長谷川泰子とのやりとりに関しての河上徹太郎の文章が引用されていて、再読しても尚、其処に書かれてる二人の人間の在り方が気に掛かってしまう。以下にそれを二次引用する。

 その頃彼は大学生だつたが、或る女性と同棲してゐた。彼女は、丁度子供が電話ごつこをして遊ぶやうに、自分の意識の紐の片端を小林に持たせて、それをうつかり彼が手離すと錯乱するといふ面倒な心理的な病気を持つてゐた。意識といつても、日常実に些細な、例へば今自分の着物の裾が畳の何番目の目の上にあるかとか、小林が操る雨戸の音が彼女の頭の中で勝手に数へるどの数に当たるかといふやうなことであつた。その数を、彼女の突然の質問に応じて、彼は咄嗟に応へねばならない。それは傍らで聞いてゐて、殆ど神業であつた。否、神といつて冒涜なら、それは鬼気を帯びた会話であつた。

 そのようなやりとりをしながらの生活が続くとは到底思えない。実際に小林秀雄はついには遁走してしまう。こういった精神状態を長谷川本人は甘え病と呼んでいたそうだ。今で言うなら極端な形で表面化した共依存というところだろうか。

 当時の周囲に居た人々は、一緒に暮らし始めた頃から頭をもたげていた長谷川の潔癖症の悪化を辿った先の症状だと見なして接していたようだ。しかし白洲正子の書くところに拠れば、そういった長谷川の症状は小林と暮らしている間にしか出ていなかったという事である。となれば、傾向として潔癖症を引き起こす要因はそもそも持っていたとしても、甘え病に関する事柄は、小林と長谷川との関係性に於いて生じたものであるのだろう。僕の勝手な解釈で書いてしまえば、潔癖症とは己の裡の脆弱な部分に触れさせまいとする防御の現れであると思う。そしてそういう自分を手厚く保護し薄汚い外界から匿ってくれる相手が居るのなら、その人間に依存する事で危機を遠ざけようとするのではないだろうか。
 そしてそれは保護者と被保護者の関係であるので、保護者が管理を怠れば被保護者は不安に苛まれ、果てには自分を不安にさせる保護者に対して憎しみの感情を抱くようになる。しかもこの場合、健全なる共依存関係である親子とは違い、成人した人間と人間との間の事であるので憎しみは暴力に繋がりやすい。通過する電車に向かって突き飛ばされる事もあったそうだ。

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 昔、未だ実家に暮らしていた頃に ” 汚れっちまった悲しみに ” というテレビドラマを観た。三上博史演ずる中原中也がとても良くて、未だに覚えているしもう一度観てみたいと思っている。中原中也と小林秀雄、長谷川泰子の三角関係を中心にして書かれたドラマである。友に女を奪われた男、友から女を奪った男、そしてその二人の男の間を行き来した女。小林秀雄を古尾谷雅人、長谷川泰子を樋口可南子が演じている。役名は実名と違うのだけれど。

 このドラマで印象に残っている場面が二つあって、一つは、小雪降る真夜中のおでんの屋台で、おでんが突き刺さった串を小林秀雄に突きつけて「芸術とは何ぞや?詩ぃとは何ぞや?!」と凄む中原中也の姿。そしてもう一つは、長谷川泰子が自分の元から離れて行く事に感づいた中原中也が女に向かって「おなごを買いに行って参ります。」と言い残して立ち去るところ。
 今思えばこれらの場面は、中原中也という人間の性質を良く表現してあると思う。しかしこういったドラマ化の場合、観る人々の最大公約数的な関心事に的が絞られてその他の不随する事柄が省略されてしまうので、この場合も御多分に漏れていない。単なる恋愛ドラマの域を出ていないのである。近年になって僕が知った三者それぞれの事情、そしてその界隈の人々の間で共有されていた価値観。これを知った上でこの三人の関係を見ないと人間の重要な部分を見落としてしまう。何が足りていないって、彼らの過ごした時間の中に立ちこめる凄絶さが足りない。