DOG ON THE BEACH

A season passes. A castle can be seen. Where is a soul without a wound ?

Month: March 2009 (page 1 of 2)

四月

 気がつけばもう四月である。春が春めく今日この頃、吹き抜ける風は温度を増してやがて嵐となり、道端の土塊に蠢いていた虫どもが大地から顔を出す。桜の木の下では人々が酒を喰らい乱痴気騒ぎの果てに眠りに就く。そんな光景を尻目に、流れる雲を追いかけながら散歩でもするのが良さそうである。道々に草花を眺め、塀の下から顔を覗かせた猫を追いかけ、見上げた空に飛行機雲を見つけたならば、心は躍りて彼方までも駆けて行くだろう。

April from doggylife on 8tracks Radio.

そもそもハイレグとは何だったのか。

 1980年代中頃、ハイレグという形状の水着が流行った。現在から見ればとても変だと僕なんかは思うのだが、その当時はハイレグこそがセクシーの代名詞であった。上のリンク先にもあるように「セクシーで人目をひく・脚が長く見える・動きやすい・涼しい」とまあ、そんな理由なのだろう。しかし僕にはセクシーというのが今一つ分からなかった。そう、僕は流行っている当時から「何処となく変だな」と思っていたのだ。ハイレグは未だ良い。鋭角に切り込んだデルタラインがスリルを感じさせるのは勿論解る。しかしその傾向が過剰となりスーパーハイレグになるともう違和感が先だってセクシーでも何でもないのだ。太腿の付け根の上まで露わになった女性の大腿部は、僕にバッタの脚を思い起こさせる。
 取り敢えずこれだけ書けば僕がハイレグを好きではない事を伝える事が出来たと思う。但し競泳水着の場合はこの限りではない。あれは動きやすさ(機能性)が優先されるだろうからハイレグ以外は有り得ないと思う。実際にそれを着用して運動するにしても、鑑賞されるにしても。

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 さて、2000年を迎えると今度はローライズが流行りだした。最初こそ僕も若干の違和感を感じていたのだが、今となってはすっかり慣れてしまい、それどころかローであればローである程良い気がしている。ファスナーの長さが5cmしかないようなジーンズを穿いた女性を見かけると心の中で小躍りするくらい好きである。ハイレグの場合は無闇やたらと公明正大というか「こんなに切れ込んだわよ。どう? 好きでしょ? 申し分ないでしょ? 素晴らしいでしょ?」という感じのスポーツ感覚がどうにも白けてしまうのだが、ローライズの場合は若干の迂闊さが存在する。しかしそれとて計算し尽くした上での迂闊さなのであって、それ無しで露出されたものは「だらしなさ」でしかない。どちらかと言えば、この方が日本人のエロティシズムの感覚に近いと思う。

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 で、こういう見方ってのは理性と本能(性欲)のどちらが欲する事なのだろうか。水着や下着などの色や素材・カットなどのデザインを注視して考えるならばそれは理性だろうし、肌の露出加減や隠蔽の際どさを考えるならばそれは本能であるように思う。しかしこんな風に単純には考えられない事も一応は知っている。何も観るのは男だけとは限らないのだ。
 以前に会社を辞めた元同僚(女)二人と久しぶりに会おうとホテルのカフェで待ち合わせした時の事。彼女らがやってくるのを待つ間、本を読んでやり過ごそうとしている僕の隣の席に、背が高くとてもスタイルの良い二人の女の子が座った。二人はローライズのジーンズを穿いており、席に座る際に露出した下着が見えた。オレンジと紫のどちらもレースの下着であった。どうやらそのカフェの支配人の知り合いらしく、せっかくだから来てやったわよ的な態度の二人に、支配人自ら給仕をして何やかやと世話を焼いていた。やがて元同僚の二人が登場し、珈琲を飲みながら近況などをてんでバラバラに語りつつ午後を過ごした。隣の席の二人の女の子は気付けばいつの間にか居なくなっていた。
 そして散々喋って話題も無くなった頃、僕は場繋ぎに「さっき隣の席に女の子が二人座ってさ、その子達が物凄いローライズ穿いてんのよ。そんでついつい見たら紫とか黒のパンツが見えたんだよねー」と女性相手に喋るには少々難のある話題をうっかり喋ってしまったのだけれど、元同僚の二人は「え?どこどこ?」「隣?隣ってどっち?」と予想外の反応が返ってくる。「いや、もう居ないよ」と僕は答えたのだけれど「えええっ!何で直ぐに教えてくれないんですか!」とか言う。「え、どして? 見たかった?」と訊けば「当たり前じゃないですか!」とユニゾンで怒鳴られる。「えー・・・何で見たいの?」「女の子大好きなんですよ。可愛いじゃないですか! で、何処なんですか?」「だからもう居ないって」「えええええっ!!」因みにこの二人は結婚してるし、僕が知る限りではレズビアンでもない。そういう感覚は本当に解らない。男が思うエロティシズムとは別な感覚で、女は女を観ているのだろう。

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 僕に解ったのは「よくわからない」という事だけだった。

扉を開ければ其処には意外な現実が在った

 ずっと昔僕が未だ実家に住んでいた頃、テレビ番組で東京の少し変わった住宅事情を紹介していた。場所は渋谷。恐らく桜丘町辺りだったと思うのだけれど、古いホテルを改装して各部屋を貸し出しているという物件だった。その物件は非常に人気があり、部屋が空くのを待っている人が後を絶たないという事であった。ホテルの部屋だから浴室とトイレは完備しているがキッチンは無い。しかし自炊する習慣の無い人にとってそれは大した問題とならないのかも知れない。部屋は広く造りもしっかりしているので、通常の賃貸物件に住む事に比べれば気分は上がる。管理人はいつでもフロントに居るし。ラウンジに腰掛けていれば、丁度お隣さんなんかが帰ってきて言葉を交わしまるでサロンのような雰囲気である。

 そんな楽しい場所が在るなんて東京はなんて素晴らしい街なんだ、とその当時の僕は思っていたに違いない。しかし進学や就職で上京したての新参者がそんな物件に入り込める訳がない。どうやって探して良いのかすら判らないし、僕はテレビを観てその事を知っていたが、そうでなければそういう場所が存在することすら知らないだろう。僕達が知らず知らずに頭の中で構築した世界というか社会の構造の外側には、想像もしなかった場所が厳然と存在しているのである。
 何故だか知らないが、そんな事を思いだした。

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 以前に村上春樹が何処かで書いていた。抜け道が多い社会こそ良い社会である、と。決まり切った額面通りの路しか無いと思いあぐねて延々と生きるのでは、どうにも希望が無い。

山手線沿線を歩く(有楽町〜東京)

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 同じ高架下の店舗には違いないが整然とし過ぎていて、観ていて面白くはない。新橋近辺の高架下店舗の「こんなところでちゃっかり店出してます」的な人間の欲望や力強さみたいなものが感じられないからだろうか。

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 全品630円均一のタイ料理屋。非常に興味を持ったのだけれど、この写真を撮った直後に、厨房に立つ料理人のニイチャンと目が合ってしまい、気まずいので入らない事にした。

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 右のビルが31階で左のビルが恐らく40階。仲が良さそうに見えるが、そうでもないと思う。

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 東京駅すぐ近くのハトバスのステーション。これだけ広い範囲をバスの停留所が占めるというのも壮観というか不思議な感じがする。ハトバスって乗った事はないのだけれど、結構楽しそうな気がする。

伏し目のボッティチェルリ

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 因みにボッティチェルリがいつも伏し目がちだとかそういう話ではない。先週放映された新日曜美術館の「パリは何故芸術都市と成り得たか?」という特集を観ていると、その中で上に(全体の一部分だが)掲げたボッティチェルリの「ヴィーナスと美神」というフレスコ画が紹介された。あーこの画家の描く女の顔は好きだなあとか呑気に眺めていたら、ふいに自分がボッティチェルリの安い画集を持っている事を思いだし、書架から引っ張り出した。
 何故僕はボッティチェルリの画集を持っているのだろうか。恐らく何処かで手にしたボッティチェルリの絵を観て、今回と同じ様な感想を持ち、目当ての絵が収録されている安い画集を取り敢えず買ったのだろう。きっとそうだ。しかしその画集には「ヴィーナスと美神」は載っていない。じゃあどの絵を目当てにして買ったのかと頁を捲って探してみたところ、案外に早く、しかも確信を持って見つけ出す事が出来た。どう考えてもこれだ。

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 「マニフィカトの聖母」この聖母の顔というか伏し目がちな表情にもの凄く惹かれる。そしてこの流れで更に思い出したのは、僕はそもそもこういう表情をする女が好きだったという事である。その事を久しぶりに思い出した。思い当たるフシは幾つかある。そう言えば緒川たまきも時々こういう表情を見せている気がする。いや気のせいかな。しかし一体何時からこういう好みの種が僕の中に植え付けられたのだろうか。学生の頃にはボッティチェルリには何の興味も持っていなかったはずなので、この絵が原型ではないと思う。その事についてはどうにも思い出せない。というのは嘘でしっかりと思い出した。思い出したのは良いが後悔で押し潰されそうである。気付かなければ良かったよ。まいったねどうも。

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