DOG ON THE BEACH

A season passes. A castle can be seen. Where is a soul without a wound ?

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 つまり、さきほど述べたように歴史が重層化していなくてはいけない。同じ日本人だったら狩野山雪あり金田伊功あり、日本の美術はマンガだよといった辻先生がいて、歴史が串刺しにならなければ現代美術ではないわけです。
 美大生は決してそれを理解しようとしません。彼らは「自由になりたい」のです。自由=アート。第一章では貧=芸術=正義という貧神話についてお話ししましたが、今度は自由=芸術=正義という自由神話です。
 この神話があるかぎり、彼らはぼくの授業を受けても、絶対に現代美術のアーティストにはなりません。その代わりに彼らのいうところの「自由人」になるのだと思います。そして「なぜ私は、アーティストじゃないんですか、こんなにすばらしい自由人なのに」と悩むわけです。
 でも、さきほどからずっと口をすっぱくしていっているように、現代美術は自由人を必要としていない。必要なのは歴史の重層化であり、コンテクストの串刺しなのです。

村上隆著『芸術闘争論』幻冬舎 2010年 p.110

 今だったら、この発表の仕方はきっとMADムービー(既存の音声・ゲーム・画像・動画・アニメーションなどを個人が編集・合成し、再構築したもの)になるでしょう。ぼくが辻先生に解説したように、自分たちでアニメーションを二次創作してニコ動で流して「みんなどうよ、これ結構ネ申じゃね」とか、「才能のむだ遣い」「そうだそうだ」とコンテクストを共有していくわけです。
 しかし、外国人からみるとアニメーションやゲームやアニメのMADはまだ芸術になっていません。それはなぜか。翻訳者がいないからです。この翻訳者というのが日本人の大嫌いな「批評」だったり「評論」です。批評というのがあってはじめて人はコンテクストの重層化した構造を理解するわけです。意味の後に通底する何枚ものレイヤーを理解するわけです。

村上隆著『芸術闘争論』幻冬舎 2010年 pp.106-107

 この目線の誘導は「ああダリのあれか」、そしてこのゴミは「ラウシェンバーグのあれか」と、そしてこのさまよったのは「やっぱりデュシャンか」と「なるほど、これは全部みていくとレイヤーが二〇層になっている」。これは「すばらしい」「たった、ここにゴミを二箇所おいただけで二〇ものアートの歴史を全部コンプリートしているというのはなかなかたいしたものではないか」。
 西欧の現代美術というのはこういうゲームなわけです。それは「自由にものを見たい」という人にとって対極にあり、いちばん忌むべきものかもしれない。そこで「不自由だよ。こんなの別に勉強しなくたっていいよ」。そう言ってしまったらそれでおしまいです。だから日本において、現代美術は意味がないというわけです。

村上隆著『芸術闘争論』幻冬舎 2010年 pp.100-101

 アートの歴史といっても、ようするにファッションと同じように、さまざまなトレンド、ブームの連続だという話は先ほどしました。ウォーホールの描くマリリン・モンローが芸術としてある程度行き渡ってしまった後には、今後はそんなアートもつまらないということになり、ミニマルアートとか、あるいは地球とか大地とかをモチーフにしたランドスケープアートというのもありました。いずれにせよ、一回ブームがくるとすぐつまらなくなるわけです。そこは株の投資とかファッションのムーブメントとまったく同じです。
 アートの世界にも同じようにピークと衰退があります。歴史というほど大げさではなくとも、過去の流れを学習しておくと、次、こういうのが来るのではないか、そういえば、今、来ようとしている「これ」は、以前あった「あれ」の引用ではないのかとかをコンテクストとして理解する。それが知的とされるのが現代美術のシーンです。

村上隆著『芸術闘争論』幻冬舎 2010年 p.94

 ピカソ問題とは、結論的にいえば、今ではある程度分析されていて日本の受験予備校などのトレーニングによってみんな絵が上手くなってしまった、ということにつながります。
 天才=絵が上手いということであるならば、絵が上手いということがインフレーションを起こしているので価値が下落している。だから、現代美術では、コンセプトということが非常に重要になってきている。ピカソ以降の時代の始まりです。
「ピカソ以降が現代美術」というのはそういうことです。絵画の実験では、ピカソがやはり直接的な描法、対象、例えば、女なら女がいてそれを画布に描く場合のメッセージ性は、芸術家のための芸術としてはもう完結してしまっていて発展がない。デッドエンド、クライマックスです。

 (中略)

 そこからは、さきほども述べたとおり、芸術と社会との接点がどんどん大きくなって、経済だったり流通だったり、絵を描く理由であったり人種であったり、世界が小さくなって情報社会の到来であったり、芸術家が考えなくてはいけないことが多くなってしまったわけです。

村上隆著『芸術闘争論』幻冬舎 2010年 pp.51-52

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