DOG ON THE BEACH

A season passes. A castle can be seen. Where is a soul without a wound ?

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イサム・ノグチ展 / 東京都現代美術館

 観に行った時の事を書くのを忘れていた。

 入口から入ってすぐ、2m級の提灯が展示してあるスペースで、音声サービスのイヤフォンに耳を傾けつつ、一心に見つめている女の子が居た。他にも閲覧者は何人も居たというのに、何故かその子だけが目に入った。たぶん20歳くらい。美大だとか美術系の学生なのだろう、今の僕が属する環境では考えられない服装をしていた。ま、そんな事はどうでも良い。
 それから後も、彼方此方の展示スペースで彼女を見かける。というか目に入ってくる。そうすると、イサム・ノグチの彫刻よりも彼女ばかりを目で追ってしまうのだ。何もその女の子が凄く好みであったとかそういう事ではない。それぞれの彫刻を取り憑かれたように見つめ、彫刻から彫刻へと小動物のように渡り歩くその姿から目を離せないのである。そんなにも熱狂的に彫刻を観る人は他には誰一人居なかった。自分の気に入った物だけを集中的に観る習慣の私とは違い、彼女は何一つ見逃そうとしない。何かしら切実さを感じしてしまう。僕はこういう人を見ているのが好きである。

 展示場から出て、関係する書籍やグッズの販売スペースを彷徨いていたのだが、其処でもその女の子を見る事になる。彼女の情熱は留まる事を覚えないようで、此処でも全ての商品を吟味していた。既に手に幾つもの商品の入った袋を下げ、それでも未だ何か探そうとしている。Tシャツを選ぶのには、30分ほどかけていた。最後に彼女が買った物は、イサム・ノグチとは全く関係のない「太陽の塔」のオブジェ。包装して貰っているところを見ると、友人へのお土産か何かにするのだろう。取り敢えずそれで満足したのか、彼女は意気揚々と美術館を後にした。
 イサム・ノグチの彫刻を観に行ったというより、その女の子を観に行ったようなものであった。

Isamu Noguchi

 東京都現代美術館のイサム・ノグチ展にて購入したDVDを観た。その中で、彼のデザインした提灯を模した照明「AKARI」についてこう語っている。

紙の提灯は壊れても、また新しいものに取り替えられる。私はこの概念を日本に教わった。過ぎゆくものを慈しむ心。いずれ人生は終わり、桜の花は散る。そこに残るのは芸術と命なのだ。

 これと似たような言葉を、昔テレビで見かけた事がある。確か北欧を紹介する番組で、国はスウェーデンかフィンランドだったと記憶する。我々が普段目にする欧州の教会は、通常は重圧で頑強な石を使って建てられる。しかしその国の教会は木造だった。教会などは何十年も何百年も壊れてしまわないように、石で建造するのが普通の考え方ではないかという問に、木造の教会で神に仕える牧師はこう答える。「形あるものは全て朽ち果て、壊れてしまうものだと私達は考えている。しかし、教会が朽ち果てても、そこに信仰は残るのだ。」僕には、その考えはとても東洋的なものに思えた。しかしその発想は、明らかに間違った認識であるようだ。

エミール・ガレ展 / 江戸東京博物館

 迂闊にも昨晩知った回顧展に行って来ました。これまでアール・ヌーヴォの展覧会などで何点かは目にしていましたが、これだけのガレの作品を目の当たりにするのは初めてです。ガレがデザインした家具は見た事があったのですが、陶器は初めてでした。しかし陶器は私としては今一つ。これなら東アジアの陶器の方が断然良い。ま、比べるものでもないんですが。
 ガレと言えばやはりガラス器。今回私の目を惹いたのは、北斎漫画をモチーフ(ほぼ絵をガラス細工でやり換えたもの)にしたガラス器。今現在私が日本の様式美に興味を持っているからこそ、そう思えるのだろうが。しかしそれとジャポニズムは別である。欧州人の好奇な色眼鏡で見られた日本の様式は、微かに歪められ、誇張され、それが非常にエキセントリックな印象を受ける。私が気に入っているのはそういう部分である。
 もう一つ。ガレのランプが在る。その斜陽の灯りと眺めていると、不思議な感覚に捕らわれる。例えば自分がこのまま死んでしまうとしても、この灯りを見つめていればさして怖くもなく、緩やかに没する事が出来るのではないか。そんな風に考えてしまった。いずれ、来るその日の為にガレのランプを手に入れるのも悪くはない。さすがにアンティーク・ガレを買うのは無理だが、エミールが没した後も営まれ続けている、ガレ商会製のランプなら買えなくもなさそうだ。

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