DOG ON THE BEACH

A season passes. A castle can be seen. Where is a soul without a wound ?

Tag: sexuality (page 1 of 9)

「花柳界」とう表現はもともと李白の詩句に由来し、花街の女性を花と柳に譬えたたものだが、やかましく言う人はこの二つを区別する。今ではほとんど忘れられているけれども、元来、花は遊女、柳は芸者を指したという。ただ、この区別が広く行われたことは一度もなかったし、かりに理屈の上では認めても、実際にはたちまち曖昧になってしまった。そもそも「芸者」という言葉は、日本語の中でいちばん定義のむずかしい単語の一つだ。荷風も芸者という言葉自体、それにこの言葉の指す観念もまた、殊に明治の山の手の色街では堕落したと嘆いている。なるほど芸者の中には、まるで修道女さながら禁欲的に芸に身を捧げる者もいたけれども、芸者とは名ばかり、なんの芸があるのかと問われれば困る者も多かった。こういう「芸者」は、値段さえ折り合えば身を売った。けれども江戸の花魁は、時には驚くほど高い教養と技芸を身につけていた。彼女たちの手になる絵や恋文が今も僅かに残っているが、そうしたものを見れば、その教養の高さは歴然としている。
 こうした曖昧さはあるものの、少なくとも江戸期の吉原では、客をもてなす手の込んだ手順の中で、芸者と花魁はそれぞれに別の役割を分担していた。お大尽の豪儀な一夜の歓楽のうち、芸者は宵のうちに歌と踊りを披露し、夜がふければ花魁の出番になるわけである。
 明治から大正へと進むにつれて、遊郭の芸者は次第に衰え、遊郭以外の芸者のほうが盛んになる。遊郭はただ色を買うだけの場所になってゆく傾向が強く、もう少し上品な楽しみを求める時には、金のある連中はむしろ料亭街に出かけ、芸者を呼ぶという形に変わってきたのだ。この変化がいちばんはっきり現れたのは引手茶屋の衰微だった。格の高い妓楼では直接には客を入れず、金のある客のほうでもいきなり登楼することなど考えない。まず茶屋に入って、そこで手筈が整えられる。当然、茶屋は芸者や幇間との結びつきが深かったし、伝統の仕来たりを守る上でも大きな役割を果たしていた。このお茶屋が衰微するにつれて、遊廓がただ売色だけの場所になっていったのも当然である。

エドワード・サイデンステッカー著『東京 下町山の手』ちくま学芸文庫 1992年 pp.231-232

 大学院生のころだったと思う。天神の西鉄名店街の古書展で仮綴じの薄い小さい和本を二冊買った。私が古書展で掘り出し物らしい本を買ったのは、後にも先にもこれきりだったような気がする。
 そのうちの一冊が「筑紫富士夢物語」という題で、其鹿・菊左・濯綏という三人の俳人の旅をつづった、一八五〇年(嘉永三年)の紀行文だった。作者について詳しいことはわからない。
 三人の俳人は佐賀の人で、太宰府天満宮へ参詣するのが目的である。しかし、この短い紀行文の中で、作者が筆を多くさいているのは、博多の柳町のことである。
 彼らは虹の松原から、吉井、前原、今宿を通って博多に近づいてくる。「福岡を通り、博多綱場丁紅屋嘉二郎の旅宿に泊まり、夕食など仕舞ふて、市内見物と出掛」と、ここでも福岡と博多は区別されている。そして三人は、今の石堂大橋近くにさしかかるのだが、そこで大宰府に行くのとは違った道へ進んで行く。
「そこここと見廻り(此所より声をひくふして)石堂橋の近辺に至る。大宰府の道は右通りなるに、不意に左をさして三人、飛て行」
 三人は「名に逢、柳町」の遊里に行くのである。かっこでくくった部分には二行書きにして小さく書いてある。こんな書き方をするのだから、遊女屋に行くことにうしろめたい気持ちはあるのであろう。私にしても売春ということについては、さまざまに複雑な思いがある。ただ、江戸時代の遊里が、単に性のはけぐちとしてのみのものではなく、しばしば豊かな文化の土壌ともなっていたことは見逃せない。
 その頂点が江戸の吉原だが、地方においても、前に引いた佐藤元海の紀行文が福岡の繁栄を記すのに「娼家もあり」と言っているように、地方においては遊里の華やかさが、土地の活気や洗練を示す一つの基準ともなっていたのである。

朝日新聞福岡本部編『江戸の博多と町方衆〜はかた学5〜』葦書房 1995年 pp.115-116

 毎年四〜五月、将軍御用の宇治茶を宇治から江戸へ運ぶ茶壺道中が出る。街道では運ばれる茶壺に向かって土下座させられる。この茶壺に付添うのが御数寄屋坊主で、ふだんは江戸城中で老中や諸奉行に茶をいれて出すのが役目である。煮ても焼いても食えぬ連中だった。その茶坊主が京の宿に泊まっているとき、主人に、「島原や祇園の遊女・妓女(プロ)ではなく、常の女(アマ)と交わりたいものだ」と、京おんなへの長年の望みを口にした。「それならばいっそのこと、内裏の官女はんはどうどすか。少々お金はかかりはるが、ある者に頼めば望みがかないます」と言う。茶坊主は生涯の思い出に頼んだ。
 当日は祇園の茶屋に席をもうけて待つうち、二十歳ほどの美しい上﨟が乗物で到着した。老女と老侍が付き添っている。数寄坊主は上﨟から歌学の教えを受けるという名目になっている。付き添いの二人はたまの外出なので、八坂神社に参詣したいと席を外した。
 茶坊主は一刻(二時間)ほど、二人だけの時間を過ごした。そして茶屋や上﨟、陸尺など、斡旋人にまとめて払った金は六十両ぐらいになり、さすがに、「よしなき望みにて無益の入用かけし」と、あとで意気消沈している。そころが、この官女というのがニセモノで、京都と大坂にだけいた「白人」と呼ばれる売女(私娼)が、官女を装ったものであった。白人は外見は美人で、京都では建仁寺あたりに多く出没した。いずれ多くは惣嫁(夜鷹)に落ちていく。

歴史読本編集部編『物語 幕末を生きた女101人』新人物往来社 2010年 pp.228-230

 数々のアニメ映画を介して、ディズニー趣味はアメリカ中に、そしてアメリカの文化的覇権に沿って世界中に広がった。それと同じように、そのアメリカの覇権の媒体であるセルアニメの肌合いにエロスを見出し、変質・同化させようとする手塚の眼は、手塚自身やその影響下にあった作家たちの漫画やアニメを介して、国内に広範に伝染したはずである。アメリカと日本の階層的な関係が、その背景を成している。それがアニメ絵の美少女とは、構造的にはディズニーアニメの卑猥なパロディ、オタク用語で言うなら、ディズニーの「アニパロ」なのである。

森川嘉一郎著『趣都の誕生 萌える都市アキハバラ』幻冬舎 2003年 p.111

 しかしこれと同等以上に重要なのは、日本のアニメがディズニーが排除してきたものを、むしろ中心的なモチーフに据えてきたということである。しばしば半裸になって性的関心を惹起こさせる美少女キャラクターと、戦闘を繰り広げるロボットである。これらはいわば、性と暴力である。輸出先の欧米やアジアで「性的だ」「暴力的だ」という反応を引き起こしている所以である。”ANIME” という呼称の定着とともに欧米で寄せられている “ジャパニメーション” への関心は、この二つの要素にほぼ集約されると言ってもよい。前章で触れたように、ガレージキットの二大モチーフとなっていったのも、他ならぬ美少女とロボットである。
 ではなぜ、美少女とロボットが日本のアニメの中心的要素となったのか。世界名作童話シリーズのようなディズニー趣味をそのまま受け継いだようなアニメだけでなく、『セーラームーン』や『エヴァンゲリオン』のようなものが現れ、むしろ中心を成しているのか。
 ロボットが中心的モチーフとなっていったことには、日本のアニメの多くが玩具メーカーの広告番組としてつくられざるを得なかったという背景がある。ロボットのデザインから、シリーズの後半に主役ロボットがより強力な二代目に交替するというフォーマットにいたるまで、スポンサーの意向が強く反映されている。そして玩具化されるとう前提は同時に、そうしたロボットに呪物的な魅力を帯びさせることを要請した。「マジンガーZ」「ゲッターロボ」「ゴットマーズ」といった主役ロボットの神がかったネーミングに、それは表れている。(「ゲッター」はドイツ語で「神」の意)。本質的にそれらキャラクターはロボットでも兵器でもなく、神像、あるいは偶像なのである。そしてこの呪物的魅力、あるいはフェティシズムこそが、広告効果の射程を超えて、日本のアニメそのものの基調として展開されていくようになったのである。
 斎藤が注目した ”戦闘美少女” は、この日本のアニメの発展過程の内に発生した、二大モチーフの混成物である。美少女が戦い、しかも決してフェミニスティックな「強い女」にならず、可憐な少女であり続ける。それは美少女とロボットを掛け合わせてできた、極めてフェティシスティックな産物である。実際、彼女らはセーラー服をアレンジしたコスチュームをまとったり、クローン人間であったり、あるいはアンドロイドだったりする。アニメーションが本質的に持っている高度に人工的な性格が、アメリカでは完全主義的で衛星思想的な、日本ではフェティシスティックな指向性をもって開拓されていったのである。

森川嘉一郎著『趣都の誕生 萌える都市アキハバラ』幻冬舎 2003年 pp.107-108

Older posts

© 2024 DOG ON THE BEACH

Theme by Anders NorenUp ↑