しかしこれと同等以上に重要なのは、日本のアニメがディズニーが排除してきたものを、むしろ中心的なモチーフに据えてきたということである。しばしば半裸になって性的関心を惹起こさせる美少女キャラクターと、戦闘を繰り広げるロボットである。これらはいわば、性と暴力である。輸出先の欧米やアジアで「性的だ」「暴力的だ」という反応を引き起こしている所以である。”ANIME” という呼称の定着とともに欧米で寄せられている “ジャパニメーション” への関心は、この二つの要素にほぼ集約されると言ってもよい。前章で触れたように、ガレージキットの二大モチーフとなっていったのも、他ならぬ美少女とロボットである。
 ではなぜ、美少女とロボットが日本のアニメの中心的要素となったのか。世界名作童話シリーズのようなディズニー趣味をそのまま受け継いだようなアニメだけでなく、『セーラームーン』や『エヴァンゲリオン』のようなものが現れ、むしろ中心を成しているのか。
 ロボットが中心的モチーフとなっていったことには、日本のアニメの多くが玩具メーカーの広告番組としてつくられざるを得なかったという背景がある。ロボットのデザインから、シリーズの後半に主役ロボットがより強力な二代目に交替するというフォーマットにいたるまで、スポンサーの意向が強く反映されている。そして玩具化されるとう前提は同時に、そうしたロボットに呪物的な魅力を帯びさせることを要請した。「マジンガーZ」「ゲッターロボ」「ゴットマーズ」といった主役ロボットの神がかったネーミングに、それは表れている。(「ゲッター」はドイツ語で「神」の意)。本質的にそれらキャラクターはロボットでも兵器でもなく、神像、あるいは偶像なのである。そしてこの呪物的魅力、あるいはフェティシズムこそが、広告効果の射程を超えて、日本のアニメそのものの基調として展開されていくようになったのである。
 斎藤が注目した ”戦闘美少女” は、この日本のアニメの発展過程の内に発生した、二大モチーフの混成物である。美少女が戦い、しかも決してフェミニスティックな「強い女」にならず、可憐な少女であり続ける。それは美少女とロボットを掛け合わせてできた、極めてフェティシスティックな産物である。実際、彼女らはセーラー服をアレンジしたコスチュームをまとったり、クローン人間であったり、あるいはアンドロイドだったりする。アニメーションが本質的に持っている高度に人工的な性格が、アメリカでは完全主義的で衛星思想的な、日本ではフェティシスティックな指向性をもって開拓されていったのである。

森川嘉一郎著『趣都の誕生 萌える都市アキハバラ』幻冬舎 2003年 pp.107-108