DOG ON THE BEACH

A season passes. A castle can be seen. Where is a soul without a wound ?

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 一方、軍用機のデザインはどのような傾向をみせているのか。マーキングに関して言えば、軍用機は旅客機とまったく逆の途をたどるのである。第二次世界大戦以前の戦闘機や爆撃機は一般に、当時の旅客機よりはるかに派手な塗装が施されていた。主翼、尾翼ともに星や鉤十字などの軍のマークがでかでかと入れられ、機首には眼や獰猛そうな牙をむき出しにした口が描かれたりした。編隊やパイロット個人のエンブレム、撃墜数を表す敵軍のマークを勲章のように入れることもあった。ほとんど暴走族の車のごとき様相を呈していたのである。
 これは何も飛行機に限らず、古来、世界のどこでも兵器や武具にはそうした派手な装飾が施されることが多かった。美術品のように飾られることも多い鎧や甲冑などは、その端的な例であろう。派手な色使いやさまざまな勲章、装飾は、見方の戦意高揚と同時に、敵を畏怖させる力をすら帯びており、立派な戦術機能を持っていたのである。

森川嘉一郎著『趣都の誕生 萌える都市アキハバラ』幻冬舎 2003年 pp.203-204

「オタクの連合赤軍」とも呼ばれたオウム信者たちにとって、ハルマゲドンを契機とする英雄譚に宗教的なまでの憧れがあったことは、当時幾度も指摘された。ただしここで重要なのは、それにより富士山が帯びた彼らにとっての特別な象徴性である。大災害を表象することによって、それは逆説的に救済の表象となったのである。大聖堂の尖塔に頂く十字架のように、あるいはステンドグラスから降り注ぐ光のように。宗教建築が担ってきたその機能が、富士山に移譲されていたのである。シェルターとしての機能のみを残し、表象機能を分離させて富士山に憑依させた宗教建築の姿。それが、サティアンなのである。

森川嘉一郎著『趣都の誕生 萌える都市アキハバラ』幻冬舎 2003年 p.180

ナイツのちゃきちゃき大放送のテーマ曲

 少し習慣が変わって、去年の11月から「土曜ワイドラジオTOKYO ナイツのちゃきちゃき大放送 」というラジオ番組を聴き始めた。お笑いコンビの「ナイツ」がパーソナリティーを務める、笑いが中心の番組だ。冒頭から軽い漫才で入り、続いてフリートーク、そして東京各地からの中継や、コメンテーターやゲストを迎えての四方山話、その他リスナーからの投稿や電話でのやり取りなどのコーナーで構成されている。番組の雰囲気はどことなく寄席っぽく、中継コーナー(TBSラジオの番組には中継コーナーが多い)は毎年元旦の午前中にフジテレビで放送される爆笑ヒットパレードの中継コーナーに近いと思う。とにかく楽しげであり、実際に聴いていて楽しいのだ。そして、その楽しげな雰囲気をさらに盛り立てているのが番組のテーマ曲やジングルである。ピアノと打楽器(楽器の種類はいろいろ)だけのシンプルな楽曲だが、和風かつ流麗なアレンジが施されていて、良いBGMとなっている。取り分け良いのが番組の冒頭に流れるテーマ曲だ。ピアノと(たぶん)ちんどん太鼓だけの曲で、ピアノも打ち付けるような弾き方で、音が軽やかに飛び跳ねる。聴いているこちらの気持ちも軽くなるようで、とても良い。この放送が始まる時間にウォーキングしている事が度々あって、左右が田畑の農道やら、河川の土手やらを歩いている時にこのテーマ曲が流れてくるとかなり良い気分になる。ましてやそれが晴れた日であれば、音が青空の中に伸び上がっていくような気さえして、文字通りに晴れ晴れとした気分になる。例えば学校で嫌な事があったり、仕事量が多くて疲れ果てていたり、職場で理不尽な目に遭ったりした一週間であっても、土曜日の午前中にこの曲を聴けば、ほんの少しでも救われたような気になるのじゃないだろうか。話を大袈裟にしてしまっているかも知れないが、そのような働きがあるような気がしてならない。制作側にそのような意図があったかどうかは分からないけど。

 さて、これは誰が演奏しているのかとネットで検索してみてもなかなかヒットせず、唯一見つけられたのは当人のサイトのページだった。同じ誕生日の女性二人によるユニットであるようだ。番組開始以降に出したアルバムの楽曲をアマゾンのページで試聴出来るので試してみると、これには収録はされていない。どうやら CD 化されてはいないようだ。しかしよくよく考えてみると、挿入曲として使われていて、番組の内容と相まっているから良いのであって、曲単体で聴くとそうでもないのかも知れない。テーマ曲で「快」の部分を呼び覚まし、番組の内容で気持ちを解していくような流れがたぶん良いのだろう。

 数々のアニメ映画を介して、ディズニー趣味はアメリカ中に、そしてアメリカの文化的覇権に沿って世界中に広がった。それと同じように、そのアメリカの覇権の媒体であるセルアニメの肌合いにエロスを見出し、変質・同化させようとする手塚の眼は、手塚自身やその影響下にあった作家たちの漫画やアニメを介して、国内に広範に伝染したはずである。アメリカと日本の階層的な関係が、その背景を成している。それがアニメ絵の美少女とは、構造的にはディズニーアニメの卑猥なパロディ、オタク用語で言うなら、ディズニーの「アニパロ」なのである。

森川嘉一郎著『趣都の誕生 萌える都市アキハバラ』幻冬舎 2003年 p.111

 しかしこれと同等以上に重要なのは、日本のアニメがディズニーが排除してきたものを、むしろ中心的なモチーフに据えてきたということである。しばしば半裸になって性的関心を惹起こさせる美少女キャラクターと、戦闘を繰り広げるロボットである。これらはいわば、性と暴力である。輸出先の欧米やアジアで「性的だ」「暴力的だ」という反応を引き起こしている所以である。”ANIME” という呼称の定着とともに欧米で寄せられている “ジャパニメーション” への関心は、この二つの要素にほぼ集約されると言ってもよい。前章で触れたように、ガレージキットの二大モチーフとなっていったのも、他ならぬ美少女とロボットである。
 ではなぜ、美少女とロボットが日本のアニメの中心的要素となったのか。世界名作童話シリーズのようなディズニー趣味をそのまま受け継いだようなアニメだけでなく、『セーラームーン』や『エヴァンゲリオン』のようなものが現れ、むしろ中心を成しているのか。
 ロボットが中心的モチーフとなっていったことには、日本のアニメの多くが玩具メーカーの広告番組としてつくられざるを得なかったという背景がある。ロボットのデザインから、シリーズの後半に主役ロボットがより強力な二代目に交替するというフォーマットにいたるまで、スポンサーの意向が強く反映されている。そして玩具化されるとう前提は同時に、そうしたロボットに呪物的な魅力を帯びさせることを要請した。「マジンガーZ」「ゲッターロボ」「ゴットマーズ」といった主役ロボットの神がかったネーミングに、それは表れている。(「ゲッター」はドイツ語で「神」の意)。本質的にそれらキャラクターはロボットでも兵器でもなく、神像、あるいは偶像なのである。そしてこの呪物的魅力、あるいはフェティシズムこそが、広告効果の射程を超えて、日本のアニメそのものの基調として展開されていくようになったのである。
 斎藤が注目した ”戦闘美少女” は、この日本のアニメの発展過程の内に発生した、二大モチーフの混成物である。美少女が戦い、しかも決してフェミニスティックな「強い女」にならず、可憐な少女であり続ける。それは美少女とロボットを掛け合わせてできた、極めてフェティシスティックな産物である。実際、彼女らはセーラー服をアレンジしたコスチュームをまとったり、クローン人間であったり、あるいはアンドロイドだったりする。アニメーションが本質的に持っている高度に人工的な性格が、アメリカでは完全主義的で衛星思想的な、日本ではフェティシスティックな指向性をもって開拓されていったのである。

森川嘉一郎著『趣都の誕生 萌える都市アキハバラ』幻冬舎 2003年 pp.107-108

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