DOG ON THE BEACH

A season passes. A castle can be seen. Where is a soul without a wound ?

Month: January 2016 (page 1 of 3)

 第1章で、高速道路の混雑を解消する手段として、高速道路料金の引き上げが有効であること、そして引き上げた料金で高速道路を拡幅したり、新しい高速道路をつくることが有効であることを述べた。実は、高速道路で渋滞が起きる現象も市場の失敗の例である。つまり、高速道路の料金が低過ぎるために、高速道路のサービス供給能力に対して利用量が過大になるのである。道路の渋滞によって利用者はお互いに速度の低下という不利益を与え合う。この不利益は外部不経済に伴う費用に他ならない。ところが、高速道路の利用者は自らが利用することによって他の自動車の速度が遅くなるということ、つまり、他の車の利用者に及ぼす外部不経済を考慮して行動しない。そのために、道路の渋滞が起きるのである。この問題を解決するには、一台の自動車が走る時に他の自動車の速度が落ちるという外部不経済を考慮した上で、高速道路の料金を決めることである。

岩田規久男著『経済学を学ぶ』ちくま新書 1994年 pp.158-159

 価格支配力を持った企業の行動について興味深いものの一つに、差別価格政策がある。その一例として映画館の料金の学生割引について考えてみよう。
 映画館の料金には学生割引がある。しかし、レストランの料金には普通、学生割引はない。これはなぜだろうか。

 (中略)

 個々の映画館はそれが立地している地域では、ある程度の価格支配力を持っている。つまり、映画館の料金を安くすれば観客を多少とも増やすことができるのに対して、料金を引き上げれば観客数の減少は避けられない。個々の映画館が料金を引き下げた場合には、学生とその他の人とでは、学生の方をより多くその映画館に引きつけることができる。つまり、価格を引き下げた場合に学生の方がその他の人よりもより多く映画館に映画を見に行こうとするという意味で、学生の映画需要の価格弾力性はその他の人よりもかなり大きいのである。学生に割引料金を提供することによって、その割引率以上に学生の観客数を増やすことができれば、映画館の総収入は増大する。それに対して、その他の一般の観客に割引料金を提供しても、彼らの映画需要の価格弾力性は小さいために、割り引いたわりには一般の観客数は増えない。そのため、一般の観客に割引料金を提供すると、かえって映画館の総収入は減ってしまう。
 このように、学生とその他の一般の人とで映画需要の価格弾力性が大きく事なる場合には、価格弾力性の大きな学生にだけ割引料金を提供することによって、映画館は収入を増大させることができるのである。
 ところが、レストランの食事の料金に学生割引を設けても、レストランは収入を増やすことはできないだろう。確かに学生に割引料金を提供すれば、彼らの食事の量は多少とも増大するかもしれない。しかし、いっときに食事の量をそれほど増やすことはできないから、割り引いたわりには食事の量を増やすことはできないだろう。そうであれば、学生に対して食事の割引料金を提供しても、レストランは収入を増やすことはできない。同じことは一般の人にも当てはまる。このように、食事に関しては、学生とその他の人とで需要の価格弾力性に大きな違いがないので、学生に対して割引料金が提供されないのである。

岩田規久男著『経済学を学ぶ』ちくま新書 1994年 pp.111-113

 アダム・スミスは「分業は市場の大きさによって制限される」と述べている。自分が生産したもののうち、自分の消費を上回る余剰部分のすべてを、自分が必要とするものと交換できるほど市場が大きくなければ、彼は一つの仕事だけに専念するわけにはいかない。人口の少ない村には食料品から日用雑貨まで何でも売っているが店、いわゆる「よろず屋」を見かけることが多い。これは売り手の店で売られている商品の一つ一つについては買ってくれる人が少ない、つまり、市場が小さいからである。「よろず屋」はさまざまな商品を揃えて、それとの交換に貨幣を手に入れなければ生計を立てることはできない。
 村には、映画館やパチンコ店などの娯楽施設がなかったり、本屋がなかったりする。そういう専門店は村では市場が小さすぎて成立し得ない。今日の日本でも。地下鉄のある都市はごくわずかしかない。地下鉄が経営として成立するためには、五〇万人程度の人口が必要であるという。
 分業の程度は市場の大きさによって制限されるので、集中がさらなる集中を呼ぶという現象が起きる。東京に何もかもが集中するという一極集中が起きるのも、東京圏という市場が群を抜いて大きいからである。東京では、あらゆる特化した商売が成立し得るかの如く、ありとあらゆる商業が存在しており、巨大都市の魅力をつくり出している。

岩田規久男著『経済学を学ぶ』ちくま新書 1994年 pp.55-56

 軽井沢は由緒ある古い金持ちだけの別荘地で今は若者であふれ返っていて、本当の金持ちは苦々しい思いでいるそうだが、北軽井沢は開拓農村で誰も苦々しい思いをしなくてもよい。牛がモウモウ鳴いているし、時期になると肥料の匂いが広々と匂ってくる。軽井沢から車で四〇分位山を登る不便なところであるが、夏は登った分だけ涼しい。冬も登った分だけ寒い。
 私はどうしてここに家を建ててしまったのか理解に苦しむ。私は脳の病気で、その病気は大きな決断を決してしてはいけない(例・結婚、あるいは家を建てることなど)とどの本にも書いてあった。友人の娘の要子ちゃんが設計してくれた。
 気がついたら建っていた。何だかストーブだけにやたら熱心になった。本当はストーブなんか必要なかったのかも知れない。床暖房を要子ちゃんがすすめてくれたからだ。でも私は子どもの頃から炎を見るのが何より好きで、人の家の風呂までたきに行っていた(昔はみんな風呂に薪でたいていたのだよ)。放火魔になる可能性は充分にある。
 要子ちゃんと私は趣味が合っていて、その趣味はフツウに尽きている。オシャレに見えることが大嫌いなのだ。ストーブのパンフレットを見て二人で「これ」と同じものを指さし「男もこれ位シンプルで丈夫そうなの居ないかね」と笑えて来た。
 出来上がったら、私はいたく北軽井沢が気に入った。そして一年中住むようになった。一年中住むと冬が一番好きになった。
 そして毎日そこに居ることが、何よりも大事なことがわかった。遅い春山がグレーがかったピンク色にふくらんで来る。山が笑いをこらえている様に見える。そして若芽は一晩で一センチ位も伸びることを知った時驚いた。不思議なことに毎年驚くのだ。驚きは喜びである。その喜びはタダなのだ。庭のフキノトウもタラの芽もタダなのだ。音もなく降りつもる雪をボケッと見ている陶酔も、一面の銀世界もタダなのだ。私がストーブをたかないのは七月と八月だけだった。私は毎日薪を放り込み踊る炎を見つづけて、炎が大きくなるのを楽しみに、ストーブにへばりついて汗をふいていた。そして残念なことに薪はタダではなかった。
 そして、ストーブは実に有能だった。よく燃え、厚いぼってりしたイモノは健気に熱をたくわえ、どんな小さな火種からも、再び立ち上がり、雄々しいのだ。
 最初の冬は家の中はほとんどサウナだった。そして風邪ばかりひいていた。
 ドレッシングをかけて食べたい程の若菜の季節が移り木々が深い緑色になると下界は猛暑である。猛暑になると沢山友達が来てくれた。ベランダで朝食など食べると「ヤダ避暑地客みたいに気取って見える、恥ずかしい」と私は思う。しかし本当に涼しい。テレビを見て、東京から遊びに来てくれた人に「ホラごらん、東京三九度だってさぁ」。私の夏の楽しみは下界が暑いということである。
 私の村も、古い別荘地で、七月と八月は、閉じていた家もあけて人が沢山来る。そして八月の末は誰も居なくなる。一年に一度、会う人達も居る。岸田今日子さんとか長嶋有君とか古道具屋のニコニコ堂とか。いかにも避暑に来たという友達と行ったり来たりすると私も避暑地にいるんだと上ずった気分になる。
 又シーンとした生活が始まる。
 そして紅葉の季節になる。私は紅葉がこんな金らんどんすだと知らなかった。金らんどんすは少しずつどんどん派手になる。空はますます深く青くなる。こみ上げて来る幸せな思い。この幸せタダである。最後にから松の金の針がサァーッと降ると秋も終わる。
 そして私は又ストーブにへばりつく。
 雪の中車をころがして農家のアライさんちに行く。冬になると友達はアライさんだけになる。又風邪ひいたと言うとアライさんが「思うに佐野さんちはちぃと家の中が暑すぎるで。それで風邪ひくだよ」。

佐野洋子著『問題があります』ちくま文庫 2012年 pp.192-195

 家から歩いて五、六分のところに、ピンクと茶色がまざったようなペンキを塗った新しい家が建った。住宅地の外れで、「鈴木病院」という小さな看板が出て病院ができた。
 昔からその町に住んでいる人は、鈴木病院のお医者さんを子供の時から知っていた。
「ガキのころは、鼻たらしてヨウ、ポケッとしておったわさ」
「双子だだよ、二人とも鼻たらしてさあ、どっちだかわかんないけど似たようなもんだ」
 出身校の私立の医大は、
「鈴木先生が入った学校だもん、たいしたことねーずらよ」と学校のランクまで評価した。私はその前を毎日通って学校へ行ったが、いつもしんとしていて、看板のかかっている玄関から人が出入りするのを見たことはなかった。
 医者の姿も見たことがなかった。
 そして、鈴木先生が父の最期を看取った。

 父は、ただただやせてゆき、原因がわからないまま、いろいろな病院を回り、最期には上京して東大病院に入院し、もしかしたらガンかもしれないからと試験開腹というのまでやった。お腹を開いてもガンはみつからず、また腹を縫い合わせた。
 一日一度回診する教授は、天皇のように尊大で、そのあとをゾロゾロと沢山の白衣の若い医者がくっついて歩き、一分もベッドの側に立っていなかった。
 父は手術の前の日、三四郎池に母を誘った。母は、学生だった父と散歩したところに結婚して十七年目にさそわれて、父は手術をしても無駄だと覚悟しているのだと考えた。手術は父を衰弱させただけだった。
 家に帰って来て、父は鈴木先生のところに下駄をはいてヒョロヒョロ出かけていった。私は薬を取りにゆき初めて鈴木先生を見た。先生はまだ若くて、背の高くない色白でポッチャリした人だった。
 患者は誰もいなかった。薬は先生が自分で袋に入れた。
「ビタミン剤だからね、お父さんにそう言ってね」
 母は薬の袋を見てため息をついたけど、下駄をはいてヒョロヒョロと出かけてゆく父を止めはしなかった。
「えらく正直な医者だな。腕組んで、わからないなあ、わからないなあといいやがる」
 大学病院で見放された患者がヒョロヒョロ歩いてやってきて、鈴木先生は困っただろうと思う。父は先生よりずっと年上で、誰にでも一種の畏れを持たせてしまう雰囲気があった。
「変わった医者だな。『内科全書』というのを持ってきて、僕はもしかしてこれじゃあないかと思うけど、佐野先生はどう思われますかと俺にききやがった」
 鈴木先生が見つけたのは、進行性筋萎縮症という病名だった。
 体の末端がしびれてきて、舌の感覚がなくなってきていた。手を開くとそのままもとにもどらなくなり、父はもう一方の手でまた折り返していた。私達はそれをじっと見ていた。
 先生は往診にくるようになった。
「この薬は劇薬で、しびれを直しますが、食欲がなくなります。どうしますか。それでもいいですか」
 父は同意した。キニーネという薬を先生は持ってきた。
 父は律儀に先生の薬を飲んだ。
 先生は、玄関に入ってくる時から全身、一生懸命だった。ハッハッと息を荒げて玄関に入ってきた。
 父はやせたあばら骨をひろげ、先生は真っ赤な顔をかたむけて、父のあばら骨に聴診器をあてた。あんなに胸に近く顔を近づけて聴診器をあてた医者を、私は見たことがない。父はヒョロヒョロと起き上がり、「飯でも食っていかないですか」と茶の間にふらつきながらやってきた。
 先生はこたつにかしこまって入り、父は非常に機嫌がよかった。
 機嫌がよくてもほとんど食欲がなかった。
「医者は外科にみんななりたがるんです。僕も外科になりたかったんです。手術の時、眼鏡がくもるんです。僕が糸を結ぶのを見ていて、教授が “鈴木君、外科はやめた方がいいねぇ“ と言いましてねぇ」
 先生のまるまっこい手がどんなに一生懸命糸を結ぼうとしていたか目に見えるようだった。そうして、二年間、鈴木先生は毎週二回ハッハッと玄関を入ってきた。そしてブトウ糖だけ打っていった。
 父は誰かれかまわず毒舌をはいた人だったが、鈴木先生にはていねいな敬語を使い、私が顔中しつこい吹出物が出ているのを見て、「先生のところに行って薬をもらってこい」と言った。
 誰もいない明るい診察室で先生は白いぬり薬をくれ、「あんた、変わっているねェ」と玄関で靴のひもを結んでいる私の横にしゃがんで言った。
 私の吹出物は全然直らなかった。
「やぶ医者だからもう行かない」
 父はただ笑っていた。

 父はほとんど起きられなくなり、昏睡するようになった。弟が自転車で先生を呼びに行った。往診かばんを弟の背中と自分のお腹にはさんで弟の胴に手を回して自転車の荷台にのってやってきた先生は、自転車が止まる前にかばんをつかんでとびおりた。
「ご親戚の方をお呼びして下さい」と先生は母に言い、それからずっと父の側に座っていた。そのまま先生は病院に帰らなかった。
 せまい茶の間にあふれているご親戚の中で先生はじっとかしこまり、時々お茶をのんで何も言わなかった。
 笛のような音を出して最後の息を吸い込んで父は死んだ。
 大晦日の夜中で、もう元旦になっていた。
 父の腕を右手で握りつづけていた先生は、「三時十三分です」と言い、左手で眼鏡をとると左腕を目にあてて泣いた。

 父が死んで二十五年たつ。
 父は、またとない医師を得て死んだと思う。

佐野洋子著『ラブ・イズ・ザ・ベスト』新潮文庫 1996年 pp.44-49

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