DOG ON THE BEACH

A season passes. A castle can be seen. Where is a soul without a wound ?

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 喜多流の仕手(能の主役)方として代々、福岡藩の黒田家に仕えたのが、梅津家である。喜多流を酌んだいきさつは、流祖北七大夫がまだ喜多流を確立していなかったころにさかのぼる。
 一六一五年(元和元年)、大坂夏の陣で豊臣方に加担した七大夫は、黒田長政に保護され、筑前に下って紅雪と名を改めた。その時、七大夫の身近にあって、修行をしたのが、筑前夜須郡甘木村の美麗作右衛門の長子、次久(のちの権右衛門)であった。
 筑前の美麗家は、大善寺玉垂宮など、筑後一円の社寺に田楽を奉仕した中世の美麗田楽の系譜をひいた一族である。
 もともと京都の梅津に住んでいたが、菅公の供をして筑紫に下ったと伝えられ、太宰府天満宮で「竹の囃子」を奉仕した、という由緒を持っていた。
 美麗の号は「容顔美麗」であったことから、頼朝から許されたものだ、と伝えている(福岡市在住の梅津忠弘師が所蔵する「筑前梅津家文書」)。
 美麗家は、のちに梅津家を称した。

朝日新聞福岡本部編『江戸の博多と町方衆〜はかた学5〜』葦書房 1995年 p.155

 一六〇三年(慶長八年)征夷大将軍に任じられた徳川家康は、早速、二条城で盛大な祝賀能を開いた。それまで秀吉の庇護の下にあった観世・金春・宝生・金剛の四座の能役者たちは、これ以後、徳川幕府の公式の式楽を担当する地位を確かなものとする。そこへ出雲のおくに一座が、歌舞伎おどりの新しい芸能を携えて登場する。芸能史の上でも、画期的な時代が到来しようとしていた。
 江戸時代の能楽は、個人的趣味にとどまらず、祝儀の際の接待として社会的にも大きな役割を持っていた。また、社交場必要なこともあって、能楽は諸藩でも盛んに行われ、大名自らの嗜みのためにも、競って能役者を重用した。
 とりわけ外様大名である黒田家では、武器をおさめる偃武の姿勢を天下に示す意味もあって、能楽を奨励したのであろう。
 長政は謡を愛好した。師である観世大夫黒雪が、長政のために節付けした見事な『観世章謡本』五十四冊(福岡市美術館蔵)も残されている。
 藩主が能楽に深い理解を示したことは、周辺の家臣たちにも影響を与えた。
 但馬は屋敷内に能舞台を持つと伝えられるほどの堪能であった。また、忠之や栗山大膳とともに、長政の病床に侍り、遺言を記録した岩崎平兵衛、太鼓の達人として江戸に知られていた。

朝日新聞福岡本部編『江戸の博多と町方衆〜はかた学5〜』葦書房 1995年 pp.151-152

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