一六〇三年(慶長八年)征夷大将軍に任じられた徳川家康は、早速、二条城で盛大な祝賀能を開いた。それまで秀吉の庇護の下にあった観世・金春・宝生・金剛の四座の能役者たちは、これ以後、徳川幕府の公式の式楽を担当する地位を確かなものとする。そこへ出雲のおくに一座が、歌舞伎おどりの新しい芸能を携えて登場する。芸能史の上でも、画期的な時代が到来しようとしていた。
 江戸時代の能楽は、個人的趣味にとどまらず、祝儀の際の接待として社会的にも大きな役割を持っていた。また、社交場必要なこともあって、能楽は諸藩でも盛んに行われ、大名自らの嗜みのためにも、競って能役者を重用した。
 とりわけ外様大名である黒田家では、武器をおさめる偃武の姿勢を天下に示す意味もあって、能楽を奨励したのであろう。
 長政は謡を愛好した。師である観世大夫黒雪が、長政のために節付けした見事な『観世章謡本』五十四冊(福岡市美術館蔵)も残されている。
 藩主が能楽に深い理解を示したことは、周辺の家臣たちにも影響を与えた。
 但馬は屋敷内に能舞台を持つと伝えられるほどの堪能であった。また、忠之や栗山大膳とともに、長政の病床に侍り、遺言を記録した岩崎平兵衛、太鼓の達人として江戸に知られていた。

朝日新聞福岡本部編『江戸の博多と町方衆〜はかた学5〜』葦書房 1995年 pp.151-152