喜多流の仕手(能の主役)方として代々、福岡藩の黒田家に仕えたのが、梅津家である。喜多流を酌んだいきさつは、流祖北七大夫がまだ喜多流を確立していなかったころにさかのぼる。
 一六一五年(元和元年)、大坂夏の陣で豊臣方に加担した七大夫は、黒田長政に保護され、筑前に下って紅雪と名を改めた。その時、七大夫の身近にあって、修行をしたのが、筑前夜須郡甘木村の美麗作右衛門の長子、次久(のちの権右衛門)であった。
 筑前の美麗家は、大善寺玉垂宮など、筑後一円の社寺に田楽を奉仕した中世の美麗田楽の系譜をひいた一族である。
 もともと京都の梅津に住んでいたが、菅公の供をして筑紫に下ったと伝えられ、太宰府天満宮で「竹の囃子」を奉仕した、という由緒を持っていた。
 美麗の号は「容顔美麗」であったことから、頼朝から許されたものだ、と伝えている(福岡市在住の梅津忠弘師が所蔵する「筑前梅津家文書」)。
 美麗家は、のちに梅津家を称した。

朝日新聞福岡本部編『江戸の博多と町方衆〜はかた学5〜』葦書房 1995年 p.155