DOG ON THE BEACH

A season passes. A castle can be seen. Where is a soul without a wound ?

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夢二 / 鈴木 清順

 そう言えば鈴木清順の映画は一作も観ていないなあというのと、この映画のコマーシャルは昔観た事あったなあというのと、竹久夢二を描いたものなら観てみたいなあというので観てみた。主要人物は実在の人をモデルに、というか名前そのままなのだけれど性格等は実際とはあまり関係なく設定されているし、物語としても実際とは全く関係ない創作である。しかしそれはどうでも良いし、そもそも其処に期待はしていない。僕が DVD のジャケットを観た時に感じた、虚無感に苛まれた人間の色気。恐らくそれがこの映画全編に映し込まれているであろう予感に期待したのである。
 しかし実際に観れば、予想とは少し違い、人間の色気というよりその場の状況の色気が映されていた。湖や河川や森林の色気、舞台は金沢だがその町屋の造りの色気、手染めの着物の柄の色気、それを纏う女の色気。僕が大好きな世界がそこに映し出されていた。その他、金屏風の前に一輪だけ花が咲いた小鉢を台座に乗せて置いている様とか、赤く怪しく染み広がる揚屋のネオンのような灯りだとか、心打ち震えるような映像で満たされている。
 幾ら革命的な美であっても伝統的な美を踏襲すべきである。それを知った上で打破し利用するべきである。この映画を観ながら、そんな事を考えていた。

炬燵ライフに於けるその装具、供物及び着衣についての考察

 休日に一日部屋に籠もってぼけーっとしていると、いろいろと下らない事を考えてしまうものだ。昨日なども柔らかい陽射しが差し込む部屋の中で、オイルヒーターと加湿器で暖められた空気に微睡んでいたのだが、ふいに炬燵が欲しいなと思いついた。思いつくのは勝手だが我が家は狭い。ベッドかテーブルを始末しない限りは炬燵を置くスペースは無い。その歴然とした事実は如何ともしがたいので、炬燵を購入する件はすっぱり諦め、僕にとっての理想的な炬燵ライフについて考え始めたという訳である。以下にその諸条件を記す。

  • 炬燵布団には暖色を用いる。江戸前の藍と灰色と黒の縦縞も考えたが、何処となく寒々しいので止める。因みに僕の実家では、母の好みが大きく反映されていて、色は赤から橙までの色で、格子柄が多かったように思う。それでなければゴブラン織りのような重圧な文様柄。
  • 天板は木目を用いる。まあ、それ以外の物って見た事ないけど。
  • その天板の上に配置されるのは、急須・湯飲み・竹編みの容器に収まった蜜柑若しくは林檎・サラダ一番・アルファベットチョコレート、そして新聞広告を折って作った屑入れ・花瓶が一つ。
  • 部屋の隅には画面の大きなテレビ。自分の周りに放置されているのは漫画と小説。
  • どうせその内に横になるので座椅子は要らない。その代わりに枕代わりにする座布団。
  • そんな空間での自分の衣服はというと、丹前。これは外せない。その下には着古したスウェットシャツ若しくはセーター。で下半身にはやはりジャージだろうか。出来ればバッタもんである事が望ましい。「 adidos 」とか「 Pama 」とか「 Mike 」が適当だろう。
  • ここまで揃えればかなり充実した炬燵ライフを送る事が出来る。しかし欲を言えば、言わせて頂くならば、外を眺めるのに雪見障子が欲しいところである。そして勿論眺めるべき庭も。

 とまあ、こんな事を考えていたのだが、かなり個人的な経験に基づくものになってしまったので、僕以外の誰の役にも立たないだろうという気はする。世の中には炬燵と共に冬を過ごさない人はたくさん居るのだろうし、最早炬燵に愛着を感じる人の方が少ないかも知れない。炬燵を用いると掃除が大変だし、それを怠ると不衛生であるし、考えてみればちっとも合理的ではない。しかし、あの暖かさはいつまでも冬の記憶として忘れられないのである。

小菊

days_20071123a 暫く前に、ラジオに出ていた假屋崎省吾が「最近の菊はいろんな種類があって綺麗なんですよお。」と話していたので、先週末に近所の花屋でサービス品として売られていた淡い黄色の小菊を一束買った。正確な名前は知らない。それを部屋にあったフラスコに挿している。何故そんな物が在るのかというと・・・よく思い出せないが我が家には花瓶の他にも色々と瓶が在るのだ。コカコーラの瓶(200ml)とか、北欧製の液体石鹸の瓶とか。
 それでどの瓶に挿そうかと考えあぐねて、ふと「粗末な感じのする奴が良いのではないか。」と思いフラスコに挿した訳なのだが、割とそれが気に入ってテーブルの上、パワーブックの隣に飾ってある。

 そして今日、一日部屋に居たのでその菊を眺める時間が長かったのだが、飾ってから一週間経つというのに、買った時と変わりない淡く穏やかな黄色い花はこの季節に良く似合うような気がした。しかし何かこう、薄い印象が周りに在る物全てに浸透している感じで、静けさを創り出しているいるようにも思えるのであった。美しい。確かにそうだが、何処となく薄幸そうな印象を持ってしまうのは、やはりフラスコなんかに挿しているからなのだろうか。

 儚げな色彩を持ち、しなやかさと意外な強靱さを併せ持つ和花を最近になって気に入り始めた。

丹前

 今週に入ってから、陽が落ちてからの気温も下がってきた事だし、押し入れの中から丹前を引っ張り出してきた。少し早い気もしたが、丹前を羽織ったままごろごろしていると、柔らかな暖かさに包まれて幸せな気分になれるのだ。

 僕が所有している丹前は、実は友人の置き土産である。藍と青と灰色の縦縞で、あからさまに江戸前な代物だ。実家に住んでいる時はちゃんと僕専用の丹前(故郷では綿入れとも呼んだ)が用意されていたりしたものだが、いざ上京して独り暮らしを始めると、自分で丹前を買おうという気にはなかなかなれずに、そのまま月日は流れたのであった。それがある日、友人が地元に帰る(んだったか米国に行くんだったか記憶が曖昧だが)ので「お前にこれをやる」という事で譲り受けたのであった。今では毎年冬になると重宝している。

 さて、いつものように「丹前」の歴史でも知ろうかと Wikipedia で調べてみたら、意外や意外、吉原の遊女勝山の衣装が発祥で、彼女に気に入られたい旗本連中を元に広まったのであるという。不思議だ。丹前というと、そういう色っぽい事からは遙か遠く離れた実用一本槍の衣服であるとばかり思っていたのに。

浪曲

 昨日の午後、たまたまテレビを点けてみたら、NHKで「東西浪曲特選」という番組をやっていて、具合が良さそうなので寝転んで観ていた。これまでの人生で、僕は浪曲という芸能をまともに観た事も聴いた事もなかったのであるが、これがなかなか格好良い。まず舞台上に置かれた、布で覆われた三つの台の配置が美しく、弁士(というのかどうかは知らないのだが)は其処に絶妙に収まる感じで立つ。そしてその語り口たるや、己の口一つで時間をコントロールする事に長け、盛り上げ方が非常に巧い。僕が全く知らなかった世界であるが、これは知っておいた方が良いのではないだろうか。そう思う日曜の午後であった。
 浪曲に於いても、伴奏というか囃すのは三味線の音。僕はそちらにも耳を奪われていた。唄を伴わない三味線の楽曲はないのだろうか。かつて吉原遊郭で、郭の営業開始と共に掻き鳴らされたという「清掻」に非常に興味を覚える。何度となく、新宿紀伊国屋本店で「清掻」で探してみたが、それらしいCDは見つからなかった。あの手の音は一日中聴いていても飽きないような気がするのだけれど、さて、何処かに無いものだろうか。

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