DOG ON THE BEACH

A season passes. A castle can be seen. Where is a soul without a wound ?

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じいちゃんと翔太

 去年の冬にありふれた奇跡という、山田太一脚本のドラマが放送されていて、僕はそれがとても好きで毎週欠かさずに観ていた。で、その劇中で井川比佐志演じる祖父と、加瀬亮演じる孫のお茶の間での話の噛み合わないテキトーな会話が特に気に入っていて、何だか自分でも台詞を書いてみたくなったので書いてみた。実は放映当時から書き始めたのだけれど、なかなか思い付かないし、途中で半年くらいこの下書きの事を忘れていたりもしたので、ようやく今日まとまったという案配だ。本当は風間杜夫演じる父親がこれに入ってくると更に面白いのだが、それはどうにも思い付かなかったので、取りあえずは二人で。

 ★

「じいちゃんよ」

「どうした」

「じいちゃんはどんな女が好きなの」

「なんだよ薮から棒に」

「いや何となく」

「何となくってなんだよ」

「何となくは・・・何となくだよ」

「わからねえやつだな」

「・・・で」

「で、って何だよ」

「じいちゃんの好きな女のタイプの話だよ」

「そりゃあ・・・」

「ばあちゃん、 なんて言うなよ」

「なんでだよ」

「昔はどうか知らねえけど今シワシワじゃねえかよ。わかんねえよ」

「ちぇっ。滅多なこと言うもんじゃねえ。ばあちゃんだってな、昔はそりゃあ色っぽい女だったんだぞ」

「・・・へえ、そうなんだ」

「おうよ。色が白くてつやつやでよ。こんなちっちゃいくせに、出てるとかあ出てるって感じよ」

「もう、表現がいやらしいんだよ、じいちゃんは」

「うるせえ奴だな。じゃあどう言やいいんだよ」

「要するにあれだろ。トランジスタグラマーだろ」

「虎のフンドシしたババア。 なんでえそりゃあ、おっかねえな」

「違うよじいちゃん。トランジスタグラマーだよ」

「だからそういうメリケン語を使うなてんだよ。意味がわからねえじゃねえか」

「今はそういう時代なんだよ、じいちゃん。少しくらい覚えようよ」

「いいや、俺はやらねえ」

「なんでよ」

「俺は余計な事はしねえ主義なんだ」

「意味がわからねえよ。それになに腕組んで偉そうにしてんだよ」

「ちぇっ。うるせえ奴だな」

「・・・ で、どうやってばあちゃんを口説いたの」

「俺か。 へへへ、そいつあ簡単だ」

「どうやったの。聞かしてよ」

「いいか。俺は言わずと知れた札付きの悪、おまけに馬鹿よ。片やばあちゃんは町内きってのお嬢さんときた。まともに行っちゃあ勝ち目はねえ」

「まあ、そうだよね」

「でな。そこで俺はちょいと考えた。あれだけの美人だ、そこいら歩きゃあ男どもが声をかけてくるにちげえねえ」

「うん」

「中にゃあ押し出しのつええヤツもいるかもしんねえ。嫌がるばあちゃんを無理矢理連れて行こうとするとかな」

「まあ、いるかもしんねえな」

「だろ。そこで俺の出番よ」

「何で」

「何でって・・・わからねえかなあ。俺がばあちゃんを助けるのよ」

「そりゃわかるけどさ、そんな都合良くじいちゃんがそこにいるはずねえだろよ」

「そんなの簡単じゃねえか。ばあちゃんの後つけてりゃ、いずれどっかの馬の骨がばあちゃんを見初めちまって、居ても立ってもいられねえ感じになってよ。三日もしねえうちに追いかけ回すに決まってるじゃねえか。そこで俺様のご登場って訳よ」

「じゃあ・・・じいちゃんそれまでずっとばあちゃんの後つけるのか」

「おうよ」

「じいちゃん」

「なんだ」

「それストーカーってんだよ」

水と人の親和性

 羽海野チカの ” 3月のライオン ” を読んでいたらこんな場面が在った。事故で両親と妹を亡くした17歳でプロ棋士の主人公は、自宅の近所(モデルとしては月島)を流れる河を眺めながらこう考える。

 河が好きだ。好きなものなんてそんなにはないけど・・・。水がたくさんあつまった姿を見ていると、ぼうっとして頭がしんとする。

 よく解る表現である。川面をじっと眺めていると次第に周囲の音や匂いやその他の感覚が少しずつ遠のいて頭の中がとても静かになる。僕は生まれてこの方河の近くにしか住んだ事がないので、それだけ親しみも在るし懐かしさもある。しかしそれだけでは説明出来ない何とも言いようのない感覚に陥ってしまうのである。それが物質としての水そのものにその影響力が在るのか、それとも水の流れにあるのか、今を持ってよく解らない。
 ただ、頭の中がごちゃごちゃして一体全体何から手を付けて良いのか、更に進んでもう何もしたくないと思っているような時には、河の流れを眺めて過ごせば幾らかは気が楽になるような気がする。言葉を換えるならば、有効な自分の緩め方であると思う。

小林秀雄と長谷川泰子

 昨日、村上護著 ” 四谷花園アパート ” を読み終えたのだけれど、以前にも同氏の著書 ” ゆきてかへらぬ ” にも書かれていた小林秀雄長谷川泰子とのやりとりに関しての河上徹太郎の文章が引用されていて、再読しても尚、其処に書かれてる二人の人間の在り方が気に掛かってしまう。以下にそれを二次引用する。

 その頃彼は大学生だつたが、或る女性と同棲してゐた。彼女は、丁度子供が電話ごつこをして遊ぶやうに、自分の意識の紐の片端を小林に持たせて、それをうつかり彼が手離すと錯乱するといふ面倒な心理的な病気を持つてゐた。意識といつても、日常実に些細な、例へば今自分の着物の裾が畳の何番目の目の上にあるかとか、小林が操る雨戸の音が彼女の頭の中で勝手に数へるどの数に当たるかといふやうなことであつた。その数を、彼女の突然の質問に応じて、彼は咄嗟に応へねばならない。それは傍らで聞いてゐて、殆ど神業であつた。否、神といつて冒涜なら、それは鬼気を帯びた会話であつた。

 そのようなやりとりをしながらの生活が続くとは到底思えない。実際に小林秀雄はついには遁走してしまう。こういった精神状態を長谷川本人は甘え病と呼んでいたそうだ。今で言うなら極端な形で表面化した共依存というところだろうか。

 当時の周囲に居た人々は、一緒に暮らし始めた頃から頭をもたげていた長谷川の潔癖症の悪化を辿った先の症状だと見なして接していたようだ。しかし白洲正子の書くところに拠れば、そういった長谷川の症状は小林と暮らしている間にしか出ていなかったという事である。となれば、傾向として潔癖症を引き起こす要因はそもそも持っていたとしても、甘え病に関する事柄は、小林と長谷川との関係性に於いて生じたものであるのだろう。僕の勝手な解釈で書いてしまえば、潔癖症とは己の裡の脆弱な部分に触れさせまいとする防御の現れであると思う。そしてそういう自分を手厚く保護し薄汚い外界から匿ってくれる相手が居るのなら、その人間に依存する事で危機を遠ざけようとするのではないだろうか。
 そしてそれは保護者と被保護者の関係であるので、保護者が管理を怠れば被保護者は不安に苛まれ、果てには自分を不安にさせる保護者に対して憎しみの感情を抱くようになる。しかもこの場合、健全なる共依存関係である親子とは違い、成人した人間と人間との間の事であるので憎しみは暴力に繋がりやすい。通過する電車に向かって突き飛ばされる事もあったそうだ。

 ★

 昔、未だ実家に暮らしていた頃に ” 汚れっちまった悲しみに ” というテレビドラマを観た。三上博史演ずる中原中也がとても良くて、未だに覚えているしもう一度観てみたいと思っている。中原中也と小林秀雄、長谷川泰子の三角関係を中心にして書かれたドラマである。友に女を奪われた男、友から女を奪った男、そしてその二人の男の間を行き来した女。小林秀雄を古尾谷雅人、長谷川泰子を樋口可南子が演じている。役名は実名と違うのだけれど。

 このドラマで印象に残っている場面が二つあって、一つは、小雪降る真夜中のおでんの屋台で、おでんが突き刺さった串を小林秀雄に突きつけて「芸術とは何ぞや?詩ぃとは何ぞや?!」と凄む中原中也の姿。そしてもう一つは、長谷川泰子が自分の元から離れて行く事に感づいた中原中也が女に向かって「おなごを買いに行って参ります。」と言い残して立ち去るところ。
 今思えばこれらの場面は、中原中也という人間の性質を良く表現してあると思う。しかしこういったドラマ化の場合、観る人々の最大公約数的な関心事に的が絞られてその他の不随する事柄が省略されてしまうので、この場合も御多分に漏れていない。単なる恋愛ドラマの域を出ていないのである。近年になって僕が知った三者それぞれの事情、そしてその界隈の人々の間で共有されていた価値観。これを知った上でこの三人の関係を見ないと人間の重要な部分を見落としてしまう。何が足りていないって、彼らの過ごした時間の中に立ちこめる凄絶さが足りない。

The tears of a clown

 忌野清志郎が喉頭癌で入院した。彼の歌声をもう一度聴く事は出来るのだろうか。

 昔、中森明夫が書いた東京トンガリキッズという本を読んだ。アマゾンのレビューを読んでいたら、それはもう16年前の事らしい。ちょうどその頃「世の中というのは、思っていたより病んだ人間ばかりなんだな。」という事を思い始めた頃だ。
 その中に、RCサクセションをモデルにしていると思われるバンドを愛して止まない高校生の少年の話(かなりうろ覚えだが)がある。僕はその短編が凄く好きだった。関東圏の地方に住むその少年は、毎日が退屈で面白くなく、そのバンドの曲をウォークマンで聴くのを楽しみに生きているような状態だった。そして待ちに待ったある日、その少年が長い時間電車に揺られ、東京へそのバンドのライヴを観に行くという話。
 その話の中で、バンドは少年に取って余りに遠く、目映く光り輝く存在として描かれている。その存在にどうにかやって近づき、手を伸ばそうとする少年。その後ろ姿は直視するのが憚られる。

 かつて同じ背中を持っていた少年達は、15年後の今どうしているだろうか。王様の放つ光は衰え、病に冒されている。

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