DOG ON THE BEACH

A season passes. A castle can be seen. Where is a soul without a wound ?

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 小林清親は弘化四年(一八四七年)本所に生まれた。現在の両国駅の近く、北斎の生地からそう遠くない所である。父は幕府蔵方の組頭をしていた。大勢の兄弟の末っ子だったにもかかわらず家督を継ぎ、慶喜に従って静岡に下る。蟄居中の将軍自身はけっして貧窮の生活ではなかったけれども、家来の中には生活に窮した者も多く、清親も寄席に出るなどして食い繋いだらしい。しかしついに東京に帰ることに決め、その帰京の途中、横浜でチャールズ・ワーグマンの指導を受けて洋画の技法を学んだ。ワーグマンは、もともとイギリスの海軍士官だったが、『絵入りロンドン新聞』の特派員として来日し、清親のほかにも高橋由一などに洋画を教えて、日本洋画の育成者となった人物である。貪欲にあらゆるものを吸収しようとした清親は、同時に下岡蓮杖に写真術を学び、さらに日本画まで習ったという。下岡蓮杖は幕末・明治の代表的な写真家で、日本の写真技術の先駆者となった人である。
 清親が版画家として仕事をしたのは、主として明治九年から一四年まで、僅かに五年間だった。その後も時折は仕事をしたけれども、集中して制作したのはこの五年間で、その間に東京の風物を百点描いた。この多産な時期の最後の作品となったのは明治一四年の神田の大火で、彼自身の家もこの火事で焼けてしまった。ちなみにこれは、明治の東京では最大の火災だった。

エドワード・サイデンステッカー著『東京 下町山の手』ちくま学芸文庫 1992年 pp.78-79

 いずれにしても江戸に残った町人たちは、はたして天皇が東京に住まうことになるのかどうかわからなかった。経済活動が麻痺してしまっている以上、娯楽もまた、当然のことながら事実上活動を停止していた。慶応四年の初め、劇場は閉鎖され、吉原へ通う人もほとんどなかった。官軍は江戸を目ざして東上の途次にある。維新とはいいながら、これはやはり革命であり、この革命軍が旧体制の首都にたいしてどんな処置を取ろうとするのか、まだ誰にも知る由もない。江戸は、この新しい世界を誕生させるについてはなんの力も貸してはいなかったし、進軍してくる官軍のほうでもまた、江戸がこの西南諸藩軍の趣味や作法について、侮蔑の念しか抱いていないことはよく承知していた。江戸の町には、陰鬱な不安が立ちこめていた。
 江戸は待った。官軍は近づいていた。この時、官軍の兵士たちの歌った歌は、後にギルバート=サリヴァンのサヴォイ
・オペラの名作『ミカド』に、ミカドの軍隊の歌として借用されることになる。原曲は明治陸軍の創設者、大村益次郎の作曲と伝えられる。進軍は、まず静岡、ついで江戸で会談の行われている間、箱根の手前で一時止まった。会談の結果、江戸城を戦うことなく明け渡すことが決まった。春も終わろうとする頃、慶喜は江戸を離れ、その数日後、江戸城と江戸の町とが、流血を見ることもなく明け渡された。官軍はすでに、東海道では品川宿、中仙道では板橋の宿まで達していた。

エドワード・サイデンステッカー著『東京 下町山の手』ちくま学芸文庫 1992年 p.48

 日本橋をはじめとして、一般に下町は保守的である。もちろん、町人を最下層に置く幕府の厳しい身分制度にたいして、不満はあった。この不満をぶつける手段として、下町の文芸や芝居には諷刺的性格が強く、山の手の武士階級を揶揄して溜飲をさげる気風もあったけれども、幕府体制の脅威となるほど強力なものではない。江戸っ子は将軍様のお膝下にいることを誇りとし、そして代々の将軍のほうでもまた、催事の折など、町人にたいして鷹揚に配慮を見せるだけの知恵はあった。やがて、実際に幕府の脅威となる勢力が現れることになるが、これは遙か西南の地方から迫った脅威であって、江戸っ子は、この田舎侍たちが新しい権力者として乗り込んできた時、旧幕府時代の武士にたいするよりもはるかに強い憤懣の念を抱いた。
 江戸っ子は独りよがりだと批判することはできるかもしれない。いわばプロの江戸っ子の末裔は今日でもいるけれども、この手の連中の自尊心はむやみに強く、ほとんど不作法とさえ呼べるだろう。世界には下町と下町以外という区別しかなく、そしてもちろん、下町以外はものの数にも入らない。谷崎潤一郎は生粋の江戸っ子で、明治十九年、日本橋の商家の生まれだけれども、仲間の江戸っ子を好まなかった。谷崎に言わせれば、江戸っ子は弱虫で、始終不平ばかりこぼし、概して実行力がない。しかし江戸時代の下町は、きわめて洗練された高度の趣味を具えていた。その後の時代の推移を見れば、この高度の洗練を維持してゆくには排他性が必要だったことも頷ける。とすれば、この程度の欠点はむしろ安い代償と言うべきかもしれない。

エドワード・サイデンステッカー著『東京 下町山の手』ちくま学芸文庫 1992年 pp.24-26

 私がもの心ついた頃に、親父が凝っていたのは、たしか釣りだったと思う。

 (中略)

 考えてみるとこの後も親父の道楽は続く。
 戦時中には日本刀、戦後は時計、ライターの収集、骨董あさり(これすべて能書きつきだったので、よく憶えている)。とは言っても、名品をあさるなどというものではなく、身分相応なものではあったけど、しかしこうやって思い出してみると我が親父は、ずい分好き勝手な人生をやってきたことがわかる。
 親父が死ぬ直前にぼそっと呟いた一言がずっと気になっている。
「アア、オモシロイコトナンテ、ナンニモナカッタ」
 あれは一体何だったんだろう。
 単に親父がもっと道楽をしとけばよかったと思った欲ばりな一言だったのか、それとも人生、中途半端な道楽なんてものでは心が満たされることはないぞ、という我が人生へのやや口惜しげな感慨、そして子供達への言いおきだったのか、或いは単に嫌味な最後っ屁だったのか。
 このどれもが有り得る親父だったから、私は未だに困惑の日々が続いている。

渡辺文雄著『江戸っ子は、やるものである。』PHP文庫 1995年 pp.157-160

 家から歩いて五、六分のところに、ピンクと茶色がまざったようなペンキを塗った新しい家が建った。住宅地の外れで、「鈴木病院」という小さな看板が出て病院ができた。
 昔からその町に住んでいる人は、鈴木病院のお医者さんを子供の時から知っていた。
「ガキのころは、鼻たらしてヨウ、ポケッとしておったわさ」
「双子だだよ、二人とも鼻たらしてさあ、どっちだかわかんないけど似たようなもんだ」
 出身校の私立の医大は、
「鈴木先生が入った学校だもん、たいしたことねーずらよ」と学校のランクまで評価した。私はその前を毎日通って学校へ行ったが、いつもしんとしていて、看板のかかっている玄関から人が出入りするのを見たことはなかった。
 医者の姿も見たことがなかった。
 そして、鈴木先生が父の最期を看取った。

 父は、ただただやせてゆき、原因がわからないまま、いろいろな病院を回り、最期には上京して東大病院に入院し、もしかしたらガンかもしれないからと試験開腹というのまでやった。お腹を開いてもガンはみつからず、また腹を縫い合わせた。
 一日一度回診する教授は、天皇のように尊大で、そのあとをゾロゾロと沢山の白衣の若い医者がくっついて歩き、一分もベッドの側に立っていなかった。
 父は手術の前の日、三四郎池に母を誘った。母は、学生だった父と散歩したところに結婚して十七年目にさそわれて、父は手術をしても無駄だと覚悟しているのだと考えた。手術は父を衰弱させただけだった。
 家に帰って来て、父は鈴木先生のところに下駄をはいてヒョロヒョロ出かけていった。私は薬を取りにゆき初めて鈴木先生を見た。先生はまだ若くて、背の高くない色白でポッチャリした人だった。
 患者は誰もいなかった。薬は先生が自分で袋に入れた。
「ビタミン剤だからね、お父さんにそう言ってね」
 母は薬の袋を見てため息をついたけど、下駄をはいてヒョロヒョロと出かけてゆく父を止めはしなかった。
「えらく正直な医者だな。腕組んで、わからないなあ、わからないなあといいやがる」
 大学病院で見放された患者がヒョロヒョロ歩いてやってきて、鈴木先生は困っただろうと思う。父は先生よりずっと年上で、誰にでも一種の畏れを持たせてしまう雰囲気があった。
「変わった医者だな。『内科全書』というのを持ってきて、僕はもしかしてこれじゃあないかと思うけど、佐野先生はどう思われますかと俺にききやがった」
 鈴木先生が見つけたのは、進行性筋萎縮症という病名だった。
 体の末端がしびれてきて、舌の感覚がなくなってきていた。手を開くとそのままもとにもどらなくなり、父はもう一方の手でまた折り返していた。私達はそれをじっと見ていた。
 先生は往診にくるようになった。
「この薬は劇薬で、しびれを直しますが、食欲がなくなります。どうしますか。それでもいいですか」
 父は同意した。キニーネという薬を先生は持ってきた。
 父は律儀に先生の薬を飲んだ。
 先生は、玄関に入ってくる時から全身、一生懸命だった。ハッハッと息を荒げて玄関に入ってきた。
 父はやせたあばら骨をひろげ、先生は真っ赤な顔をかたむけて、父のあばら骨に聴診器をあてた。あんなに胸に近く顔を近づけて聴診器をあてた医者を、私は見たことがない。父はヒョロヒョロと起き上がり、「飯でも食っていかないですか」と茶の間にふらつきながらやってきた。
 先生はこたつにかしこまって入り、父は非常に機嫌がよかった。
 機嫌がよくてもほとんど食欲がなかった。
「医者は外科にみんななりたがるんです。僕も外科になりたかったんです。手術の時、眼鏡がくもるんです。僕が糸を結ぶのを見ていて、教授が “鈴木君、外科はやめた方がいいねぇ“ と言いましてねぇ」
 先生のまるまっこい手がどんなに一生懸命糸を結ぼうとしていたか目に見えるようだった。そうして、二年間、鈴木先生は毎週二回ハッハッと玄関を入ってきた。そしてブトウ糖だけ打っていった。
 父は誰かれかまわず毒舌をはいた人だったが、鈴木先生にはていねいな敬語を使い、私が顔中しつこい吹出物が出ているのを見て、「先生のところに行って薬をもらってこい」と言った。
 誰もいない明るい診察室で先生は白いぬり薬をくれ、「あんた、変わっているねェ」と玄関で靴のひもを結んでいる私の横にしゃがんで言った。
 私の吹出物は全然直らなかった。
「やぶ医者だからもう行かない」
 父はただ笑っていた。

 父はほとんど起きられなくなり、昏睡するようになった。弟が自転車で先生を呼びに行った。往診かばんを弟の背中と自分のお腹にはさんで弟の胴に手を回して自転車の荷台にのってやってきた先生は、自転車が止まる前にかばんをつかんでとびおりた。
「ご親戚の方をお呼びして下さい」と先生は母に言い、それからずっと父の側に座っていた。そのまま先生は病院に帰らなかった。
 せまい茶の間にあふれているご親戚の中で先生はじっとかしこまり、時々お茶をのんで何も言わなかった。
 笛のような音を出して最後の息を吸い込んで父は死んだ。
 大晦日の夜中で、もう元旦になっていた。
 父の腕を右手で握りつづけていた先生は、「三時十三分です」と言い、左手で眼鏡をとると左腕を目にあてて泣いた。

 父が死んで二十五年たつ。
 父は、またとない医師を得て死んだと思う。

佐野洋子著『ラブ・イズ・ザ・ベスト』新潮文庫 1996年 pp.44-49

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