日本橋をはじめとして、一般に下町は保守的である。もちろん、町人を最下層に置く幕府の厳しい身分制度にたいして、不満はあった。この不満をぶつける手段として、下町の文芸や芝居には諷刺的性格が強く、山の手の武士階級を揶揄して溜飲をさげる気風もあったけれども、幕府体制の脅威となるほど強力なものではない。江戸っ子は将軍様のお膝下にいることを誇りとし、そして代々の将軍のほうでもまた、催事の折など、町人にたいして鷹揚に配慮を見せるだけの知恵はあった。やがて、実際に幕府の脅威となる勢力が現れることになるが、これは遙か西南の地方から迫った脅威であって、江戸っ子は、この田舎侍たちが新しい権力者として乗り込んできた時、旧幕府時代の武士にたいするよりもはるかに強い憤懣の念を抱いた。
 江戸っ子は独りよがりだと批判することはできるかもしれない。いわばプロの江戸っ子の末裔は今日でもいるけれども、この手の連中の自尊心はむやみに強く、ほとんど不作法とさえ呼べるだろう。世界には下町と下町以外という区別しかなく、そしてもちろん、下町以外はものの数にも入らない。谷崎潤一郎は生粋の江戸っ子で、明治十九年、日本橋の商家の生まれだけれども、仲間の江戸っ子を好まなかった。谷崎に言わせれば、江戸っ子は弱虫で、始終不平ばかりこぼし、概して実行力がない。しかし江戸時代の下町は、きわめて洗練された高度の趣味を具えていた。その後の時代の推移を見れば、この高度の洗練を維持してゆくには排他性が必要だったことも頷ける。とすれば、この程度の欠点はむしろ安い代償と言うべきかもしれない。

エドワード・サイデンステッカー著『東京 下町山の手』ちくま学芸文庫 1992年 pp.24-26