DOG ON THE BEACH

A season passes. A castle can be seen. Where is a soul without a wound ?

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 たくさんの友人の慰めと励ましのなかで、受験という日常のなかに私はもどり、イーゼルの前に坐って、今年こそはと思っていた。隣りの空いている椅子に、ふだんあまり話をしたことのない、それでも顔をあわせれば、あいさつも、駅までは一緒に帰るほどのつきあいもする友達が坐った。彼はしばらく黙っていて、「大変だったね」とひとこと言った。私はそのひとことを、しみじみありがたく思った。
 彼は遠い友達だった。
 そのひとことは、彼が、遠い友達のままであるということを明らかに示していたけれど、その遠い友情が私を打った。
 色濃く私を支えてくれた友情の輪の向こうの遠い友情は、遠い星を見て、宇宙が美しいと感じることに似ていた。

佐野洋子著『私の猫たち許してほしい』ちくま文庫 1990年 pp.56-57

とある秋の日の散歩道

 先々週の月曜日だったか、午前中にウォーキングに出た。気温は高めで明るい陽差しの下、いつものように農道(と書くと畦道を想像するかも知れないがちゃんとアスファルトで舗装されている)を西へ抜けると、近くの幼稚園の子供達がどうやら散歩中であるらしく、みんな赤い帽子を被ってひよこのように歩道の一角に整列していた。僕は保育士や園児達と挨拶を交わしながら行き過ぎたが、道の脇には黄色く花を付けた背高泡立草が立ち並んでいた。
 それから僕は別な農道に入る。それは昔から在る道で、僕が子供の頃にはまだ舗装されていなかった。田畑の広がる地域を蛇行しながら南北に延びていて、その途中に今はもう使われていない資材ゴミ焼き場が在る。燃え残って積み上がった資材が生い茂った植物で覆われていて山のように見える。そしてその中には野生化した青紫色のアサガオが混じっていた。その農道は橋のたもとに繋がっており、河岸には釣り人が二人、少し離れて坐って川面に糸を垂らしていた。子供の頃の記憶を辿ると、釣れるのはコイかフナかタイワンドジョウのはずである。装備を見る限りでは、フナ釣りだと思われた。
 今度は川沿いの道を歩く。珍しく透明度の高い川の流れを覗き込むとコイが群れて泳いでいた。暫く歩くと二本の川が合流する場所があり、川面には十数匹のカモが泳いでいた。先頃まで居たシラサギやアオサギと入れ替わるように彼らはやって来る。てんでに泳ぎ回る彼らは楽しそうだ。
 暫く歩いてさっきのとは別な橋を渡り、対岸に沿う道を神社へ向かって西へ歩く。西鉄のガード下を潜り、色づき始めたイチョウの木を見上げ、駐車場から境内へ入る。石段を昇り山門を潜って本殿の前へ進み出る。賽銭を箱に向かって放り、鈴を鳴らさず(わざわざお出で頂くのは気が引けるような気がして)、二礼二拍手一礼。なかなか良い音が出せない。願い事をするのはどうにも照れる。
 その後境内を一回りして、山門の横を通り、鳥居で一礼して境内を出るとそこはまた別な橋(町を貫く県道が走っている)のたもとで、僕は再び橋を渡り、今度は東へ向かって川沿いの道を歩く。そしてすぐさま踏み切りの手前で右に折れ、坂道を下る。路地を抜けると、そこは僕が小学生の頃に住んでいた地域だ。なので見覚えのある古い家と、建て替えられた目新しい家が混在していて不思議な感覚を覚える。昔は時計屋・肉屋・魚屋・花屋・薬屋・醤油工場・ピアノ教室が建ち並んでいた通りに、今では醤油工場しか残っていない。僕は踏切へと向かって歩く。ちょうど来た二両編成の電車が通り過ぎるのを待ちながら、子供の頃から在る人家の手入れされた生け垣や庭木などを眺める。踏切を越えて真っ直ぐ歩いて行くと、家族が次に引っ越した家が在った地域に入る。実際には脇道から脇道へと入って行った先に当時住んでいた場所が在る。家屋自体はもう取り壊されているが、土地はそのままだ。
 脇道へは入らずにそのまま進むと、幼馴染みの家が左手に在る。そしてその家の前から右に折れて路地に入る。かつてその路地沿いには古い市営住宅が建ち並んでいた。建て替えの計画が進んでいて、今では三分の二くらいが取り壊されて空き地になっている。間取りは2DKくらいだろうか。小さな家だが、どの家もよく手入れが為されている。猫の額ほどの庭にも色々な植物が植えられていて、季節毎に楽しませてくれる。僕個人からすれば何故そのままにしておかないのかと思うが、古いままだと管理面で何かと不都合が出るのだろう。
 その道は駅へと向かう。しかしそのまま素直に繋がってはくれない。突き当たって右折してすぐに左に折れると、ようやく小さなロータリーに出るのだが、その手前に菜園が在る。いつ見ても雑草の一本も生えていない、手入れのよく行き届いた菜園だ。その日は主の老夫婦がサツマイモを掘り起こしていた。丸々と太って美味そうな芋であった。いつもは夫か妻のどちらかしか見かけないが、今日は二人揃っていた。菜園の敷地内に作業小屋を建てて、道具置き場にしたり休憩所にしたりしているようだ。農作業着も何だか小綺麗にしている。
 それからロータリーを渡り、駅前のマンションの一階に入った幼稚園の前を横切って脇道に入る。一軒家やアパートが立ち並ぶ区域ではあるが、心療内科の医院も在る。アパートの駐車場から一台の軽バンが出て来る。車の後部に資材や工具を積んで、屋根には脚立を二台乗せて、二十代であろう青年が二人、それぞれ頭にタオルを巻いて乗っている。出て来たアパートで、朝一で作業をしていたのだろう。ツナギの袖を捲り上げた腕でハンドルを捌き、意気揚々と走り去っていった。
 僕は彼らを見送りながら南へ歩き続け、突き当たりの道路を渡り、自宅へと帰り着いた。気温と、光の加減と、道々で目に入る色彩と、人々の穏やかな動きが見事に調和した、とある秋の日の散歩道であった。

車中にて

 先の土曜日、上野アメ屋横町で買い物をしたその帰り、京成本線電車内での事。

 早い内から車両に乗り込み座っていた僕の目の前に、発車時刻ギリギリになだれ込んできた一団があった。中年層から初老の域までの男女合わせて10人ほどの団体。折りたたみのイーゼルを入れる布袋や、絵の具・筆を収納する手提げ箱や、ホルベインのショルダーバッグを持っている人がいるところを見ると、どうやら上野公園で写生をしていた人達であろう事が伺える。
 それぞれが和気あいあいと座席に座ったり立ったりしながら、今日の陽射しの具合や、絵の具の仕入れ先の事について話したり、技術面でのアドヴァイスをしたりして過ごしている。僕の隣には派手な身なりの老年に差し掛かった女性が座り、その前には擦り切れたジーンズにフィールド・ジャケットを羽織ったの初老の男性が立った。話を聞いていると、その男性はどうやらその会の指導者か若しくは主催者であるようだった。何故ならばちょっと偉そうだったからである。

 まあそこまでは良い。普通の光景だ。しかし、どうやら連中は写生の後、知り合いのイタリア料理屋で一杯やってきたらしく、僕の目の前の男性も結構饒舌であった。そして彼は、途中から会の他のメンバーの絵にケチをつけ始めた。当日の写生会の事ではないようだが、何やら発表会をやったらしくて、その時に提出された絵をいちいち否定するのである。「あいつ、あんなへったクソな絵出しやがってさー・・・」「まあまあ見れるのは、そうだねえ、一枚くらいかな・・・」
 事実そうなのかも知れないが、指導者(若しくは主催者)が同じ会のメンバーの一人に向かって、そんな事を口にするのは凄くマズイんじゃないのかなあ。そんなに気に入らないんだったら独りで描いてりゃいいのに。そんな事を思いながら、僕は寝たふりをしていたのだけれど、再び目を開けた瞬間、その初老の男のジーンズのジッパーが全開になっている事に気付いた。
 カッコ悪い・・・。そう思うと同時に、僕はその男が不憫に思えてきた。社会の窓が全開になっている事に気付かぬまま他人の悪口を言うのは、本当に間が抜けている。僕はその事を彼に告げるべきか迷ったが、何だかツマラナイ反応が返ってきそうなので、何も言わずに寝たふりを続けた。

イサム・ノグチ展 / 東京都現代美術館

 観に行った時の事を書くのを忘れていた。

 入口から入ってすぐ、2m級の提灯が展示してあるスペースで、音声サービスのイヤフォンに耳を傾けつつ、一心に見つめている女の子が居た。他にも閲覧者は何人も居たというのに、何故かその子だけが目に入った。たぶん20歳くらい。美大だとか美術系の学生なのだろう、今の僕が属する環境では考えられない服装をしていた。ま、そんな事はどうでも良い。
 それから後も、彼方此方の展示スペースで彼女を見かける。というか目に入ってくる。そうすると、イサム・ノグチの彫刻よりも彼女ばかりを目で追ってしまうのだ。何もその女の子が凄く好みであったとかそういう事ではない。それぞれの彫刻を取り憑かれたように見つめ、彫刻から彫刻へと小動物のように渡り歩くその姿から目を離せないのである。そんなにも熱狂的に彫刻を観る人は他には誰一人居なかった。自分の気に入った物だけを集中的に観る習慣の私とは違い、彼女は何一つ見逃そうとしない。何かしら切実さを感じしてしまう。僕はこういう人を見ているのが好きである。

 展示場から出て、関係する書籍やグッズの販売スペースを彷徨いていたのだが、其処でもその女の子を見る事になる。彼女の情熱は留まる事を覚えないようで、此処でも全ての商品を吟味していた。既に手に幾つもの商品の入った袋を下げ、それでも未だ何か探そうとしている。Tシャツを選ぶのには、30分ほどかけていた。最後に彼女が買った物は、イサム・ノグチとは全く関係のない「太陽の塔」のオブジェ。包装して貰っているところを見ると、友人へのお土産か何かにするのだろう。取り敢えずそれで満足したのか、彼女は意気揚々と美術館を後にした。
 イサム・ノグチの彫刻を観に行ったというより、その女の子を観に行ったようなものであった。

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