DOG ON THE BEACH

A season passes. A castle can be seen. Where is a soul without a wound ?

Tag: philosophy (page 2 of 11)

ゆっくりと歩く

 朝、駅へと向かう道すがら、時折見かける女子高校生が居る。だいたいは僕の少し前を彼女が歩いており、僕が途中で追い越す。つまり彼女は僕よりもずっと歩調が緩やかである訳だ。いや、僕というより、誰よりも緩やかに歩いている。学校指定のボストン型のバッグを背負い、もう一つ別なバッグを肩に掛けている。いつもイヤフォンで何かを聴いており、時々スマートフォンをバッグから取り出しては画面をスクロールしている。こう言ってはなんだが、何の変哲もない高校生に見える。しかし彼女の歩き方だけが誰とも違っている。同じような学生であれ、勤め人であれ、駅へと向かう人達は皆わりと早足で(こう書くと何だか80年代ポップスの歌詞のようだ)次々に彼女を追い抜いていく。彼女だけが超然と別な時間軸で生きているような印象を受ける。

 何故彼女はそんなにもゆっくりと歩いているのだろうか。

 自分の事を振り返ってみれば、回りに人が多いだけならそれほど気にならないが、人混みの中を歩くのは好きではない。しかしこれは、長年東京に住んでいるせいか感覚が年々鈍磨してきて、昔ほどには気にしなくなった。昔はとにかく早く人混みを抜けたくて早歩きをしていた。そんな事をやっていると、そのうちにその事自体が少し楽しくなってきて、道行く大勢の人々を障害物と見立てて、バイクがスラロームでパイロンを擦り抜けるようにして歩いていた。それはそれで面白かった。
 そんな事を繰り返しながら歳を取り、徐々にではあるが疲弊してくると、いつの間にか歩く人が少ない道を選んで歩くようになり、目的地へ到達するには避けて通れない場合は、息を潜めるように我慢しながら歩くようになった。そういう時はやはり早歩きである。そしてその習慣が影響しているのであろう、目的地が在る場合には割としゃんしゃん歩いている。何もそれは特別な事ではなく、おおよその人達は同じような感覚でいるのではないかと思っている。

 そして、朝見かける女子高校生の話に戻る。僕が思うに、勤め人が休日の散歩を慈しむように、平日の毎朝、駅までの道のりを楽しんでいるのではないだろうか。好きな音楽(ではないかも知れないけど)を聴きながら、学校に着くまでの時間をめいっぱい楽しもうとしているのではないだろうか。そういう事ならば僕にも解るような気がする。例えば、仕事が困窮しいて、どうにも出社したくない状況であったりすると、会社に着くまでの道程をなるだけ長く楽しもうと、文章に集中したり音楽で気持ちを和らげたりしている。
 そういうものだろうと思う。学校生活なんて、仲の良い級友と喋るか、好きな部活動に勤しむ以外には楽しい事など何一つない。学校の勉強が好きな人も居るかも知れないが、僕にはそれはよく解らない。彼女がいったいどういう毎日を送っているのかは勿論判らないが、学校生活をどうにかやり過ごす為の、彼女なりの知恵であるのかも知れない。

 ★

 一昨日の話だけど、彼女の背中を眺めながらふと思い付いて、同じようにゆっくりと歩いてみたくなった。彼女との距離を詰めてしまわないように、いつもよりも緩慢に脚を動かして歩いてみた。僕の主観で言うなら「必要以上にゆっくり」と。
 すぐに気持ちに変化が見られた。気分が良いのである。歩く速度はそんなに変わらないはずなのに、景色の見え方が随分と違う。目にするもの自体はいつもと変わらないが、線路脇の鉢植えや、沿道に建つ低いビルの屋上に並んで羽を休めている鳩だとかが、いつも以上に僕の目に迫ってくる。平素では流して見ているこれらの事象が、これほどまでに存在感を持っているものだとは思わなかった。いや、忘れていただけなのかも知れない。しかし、この現世がこのような重量感をもって認められるというのは、僕の世界観に於いて新しい発見であるように感じる。

 暫くの間、この習慣を意識的に続けてみようと思っている。

逢魔が時

 昼間暖かった日に、陽が傾くにつれて気温も下がり、少しく肌寒い心持ちにて部屋の中でぼうっとしていると、何やら寂しいような心許ないような気分に陥る事がある。これが精神的に安定している時であれば大した事はないけれども、少々でも不安定だったりすると、前述の感情に加えて焦燥感のようなものまで混ざってくる。そうなると不安定さが増して大変宜しくないので、何か他の事に目を向けて、意識を逸らす必要がある。勿論楽しい事が好ましい。
 そんな時はテレビ放送や気に入っている DVD を観るのが良い。その他にも漫画を読むとか、落語やラジオを聴くとか。共に暮らす人があれば話すのも良いし、飼い猫に自分からじゃれついて行くのも良いだろう。調理をして暖かいものを口にするも良いかも知れない。ともかく、独りでぽつねんとしない事である。

 今日の夕刻まさに、久しぶりにそんな気分になったので、録画していたテレビ番組を観ていたのだけれど、その番組が「峰不二子という女」であったので薄暗い気分は拭えなかった。仕方が無いのでこの文章を書き始めた訳(途中でスパゲティ作って食べたが)だが、ついでに「逢魔が時」を WEB 検索していてこんなページを見つけた。表現がなかなに的確だったので引用しておく。

 一日が終わろうとする夕暮れ時。お豆腐屋さんのラッパが薄暗くなりかけた夕焼け空を流れていく。我を忘れて遊びに全身を打ち込んでいた幼い頃、夕暮れ時はいつも理由もなく物悲しい気分にさせられた。
 仲間との別れ。遊びの終焉。明日になれば、また、会えるのだし、遊べるのだけれど、私は心の底で、でもそれは絶対ではない……と感じていたように思う。
 毎日巡ってくる、一日のあの時間帯。昼から、夜へ、その橋のような時間。明るくも暗くもないそのぼんやりした感じ。このぼんやりした橋を渡るとき、私はいつもとぼとぼと一人だったように思う。人攫いが出てくるのなら、こういう時だろうなと想像もしたっけ。

 そう、逢魔が時には何か終焉が迫っているような気がしてくるのだ。その辺りが焦燥感を生むのだろう。

 そう言えば子供の頃、父が時代劇が好きでテレビでよく観ていた。その中で確か「破れ傘奉行」だったと思うが、エンデイングの映像が画面一杯に映された夕陽で、太陽が徐々に地平線へ沈んでいく様を毎週眺めていた。しかし僕はその映像が好きだった訳ではなく、怖くて目を逸らせなかったのだ。沈みゆく太陽がこの世の終わり、というか自分の命の終わりを連想させて、自分が死んだ後は一体どうなるのだろう。僕が死んだ後も他の人達は生きていて、僕だけが真っ暗な宇宙のような何処か別な場所に放り出されて、その時僕はどんな気持ちになるのだろう。言葉でこう認識していたのかは怪しいが、感覚的にそう思っていた。それがとても辛くて、そしてやがてそうなるのであろう事実が怖かった。逢魔が時に感じるのと少し似ている。

 何の小説だったか忘れたが「人が死ぬ時に一番怖れるのは、自分という存在とお別れしなければならない事だ」というような事が書かれていた。確かにそれはとても怖い。想像するのも嫌である。霊や輪廻の考えは、もしかするとその恐怖から逃れる為に生まれたのかも知れない、と僕は思っている。

晩年

 先週から NHK 連続テレビ小説「カーネーション」では、糸子が70を超えた晩年を迎えている。その中で、かつて親しかった人達の遺影を眺め、子供達が皆遠くへ行ってしまって独りになった事に思いを馳せる場面があった。何故こんな風になってしまったのだろう、と。さらりと流して描かれていたし、その後も繰り返す事はなかった。その辺りを余り強調したくなかったのだろう。僕はその場面を観て、リリー・フランキーの「東京タワー」の中で、主人公の二人の祖母の晩年に関する記述を思い出した。

 筑豊のばあちゃんは相変わらずひとりで、黄色くなったジャーの中の御飯を食べていた。家の中には線香とサロンパスの匂いは充満していて、その匂いを嗅ぐたびに、なにか淋しい気分になっていた。膝を悪くして、和式トイレの便器の上には、簡易様式トイレの便座が置かれてあった。
 家財道具、自分の身体はどんどん古くなり、くたびれてゆく中で、毎日、日めくりのカレンダーだけが新しくめくられている。
 誰も居なくなった家で、黄色くなった御飯を食べながら、心臓病の薬を飲み、映りの悪くなったテレビを観ている。ばあちゃんにとって、一日のどんな時が楽しいのだろう? 人生の何が楽しみなのだろう? どうあれば幸福を感じ、なにが起きれば悲しむのだろうか?

 (中略)

 小倉のばあちゃんも同じように、誰も居なくなった我が家にひとりで住んでいる。子供たち、孫たちは、それぞれに新しいことが連続する毎日の中で、息つく暇もないほどに動き回っている。ばあちゃんたちはそれとは逆に、毎日同じ風景と残像の中で、ただ息をつき、日めくりだけが新しくめくれてゆく。

 (中略)

 結局、廃れてしまう、寂れてしまう、離れてしまう、誰もいなくなってしまう。

 出版当時に、氏が出演していたラジオ番組の中でも、何かのイベント時に収録したのだであろう、読者の声がインタビューされていた。「感動しました」「泣けました」「母親を大事にしようと思いました」等々、宣伝目的なので当たり前だが、そのような陳腐極まりない言葉が繰り返し流れた。久世光彦はこの小説を指して「ひらかなで書かれた聖書だ」と宣われたらしい。その言葉からしても、この小説は単なる母の子へ対する愛情の物語ではないと思っているのだが、それ以外の感想を目耳にした事がない。この本は人生に対する諦念と、人の愚かしさと、その中で生きて行かねばならぬ覚悟を描いているのだと僕は思っている。
 若くして死んでしまうのでもなければ、我々は老境を過ごさなくてはならない。肉体と精神の老い、そして社会的に朽ちていく事に耐えねばならない。それでも、そんな苦痛を背負いながらも生きようとしてしまう。40を超えると初老と呼ばれるが、衰えなどはとっくの昔に始まっている。先は長いのか短いのか判らないが、楽な事はなさそうだ。どえらい所に立たされたものだ、と思う。

 原作を読んでないし実際の経歴も知らないのだが、ドラマの中では、糸子は晩年になって過酷なプレタポルテ業を始める決意をする。それはもしかすると、老境での孤独に立ち向かおうとしているのかも知れないと僕は思っている。

炉心融解 / 鏡音リン

 今更な事を書くけど、久しぶりに観たので。2008年末に発表され、恐らくニコニコ動画で二度のミリオン再生を稼いだ動画。まとめてるサイトも在るし面倒なので詳細は書かないけど、これを観てると、今後の音楽制作がどういう方向に進んでいくのか色々と(余計なお世話だが)考えてしまう。これは楽曲も、歌詞も、動画も出来が良いので人気を博すのはよく解る。でもそれ以上に僕が感心するのは、ヴォーカロイドだと歌い手の持つ音域や息継ぎなどを全く考慮せずに作曲出来るという事実である。特にこの曲だと、淀みなく何処までも伸びていくヴォーカルは最大の魅力だ。当たり前だけど、まさに超人的。作曲の自由度が人類史上希に見るほど高いのだ。
 どの楽曲か忘れたけど、モーツァルトが贔屓のソプラノ歌手に依頼され、そのソプラノ歌手の喉が追いつけないほどの複雑さと音域で(意地悪く)作曲して渡したら、見事歌いきられてしまったというエピソードが在ったように思うが、そんな遣り取りが発生する事も今後は無いのかも知れない。

 一方、生音を好み、歌い手の声質や抑揚など、生身の人間にしか出せないような要素を音楽の重要なものとして捉えているなら、幾ら音が自由でもフェイクにしか思えないかも知れない。ただ、現在ではエフェクトのかかったヴォーカルを好む流れもあり(ex. Perfume)、当座の流れとしては二分するのかも知れない。どちらがより優れているか、というのは既に土俵違いで、音楽の何を好むのかという事になりそうな気がする。それはたぶん生活のスタイルというか、より自分の好む質感であるのかどうかという事になりそうだ。

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 因みに上記のリンク先にこの動画のクレジットが記載されていて、各担当の自サイトへ繋がってるんだけど、誰も彼も凄そうだ。もしかすると、この国の才能はこの界隈に集約されつつあるのかも知れない。

 この曲もそうだけど、今を持って終末感漂う昨今の歌詞の世界観については、また別の機会に。この歌詞なんて、人を絞め殺す事を夢想(動画では、絞め殺す相手は幼い頃の自分にようだ)しておいて、挙げ句の果てには「自分が居ない世界の方が正しい」みたいな事言ってるし。一般に流通する J-POP ではまずお目にかかれない歌である。

喪失

 人の心から何かが失われると、それはそのまま人の裡に絶対的な空白を作る。そして眼差しに影を落としてしまう。注目すべきはその部分であり表層ではない。表層は舞台であり、其処では人はどんな嘘をも吐く事が出来る。舞台は華やかで、勢いもあり、潔いものであるが、角度を変えて見てみれば、何処か哀し気な色が差している。そしてその落差は、厄介な事に、とても美しく見える。

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