DOG ON THE BEACH

A season passes. A castle can be seen. Where is a soul without a wound ?

Tag: psychology (page 2 of 9)

 一人の勝者もいない戦場で、ひたすら敗走を続ける若者たち。私はそんなイメージを抱いてしまうが、いささかロマンチックすぎるだろうか。しかしどうしても疑問は残る。彼らが事実関係のいかんにかかわらず「負け」のイメージに固執するのは、いったいなぜなのか。そこにどんな「メリット」があるというのだろうか。
 現時点での、私の推測はこうだ。彼らは、負けたと思いこむことにおいて、自らのプライドを温存しているのではないだろうか。現状の自分を肯定する身振り、すなわち自信を持って自己主張することは、批判のリスクにまっさきにさらされてしまう。むしろ現状を否定することで、より高い理念の側にプライドを確保することが、彼らが「正気」でいられる唯一の手段なのではないか。その意味では、「負けたと思いこむ」こともまた、ナルシシズムの産物なのだ。「負けていない」と否認することによって、自らの「正気」すら手放してしまうのではないかという恐れが、彼らをして「負け」に固執させてしまう。この、あまり過去にも他国にも例のない自己愛の形式を、かりに「自称的自己愛」と呼ぶことにしたい。
「『負けた』教の信者」とは、まさにこの「自称的自己愛」にしかすがることのできない若者たちのことを指している。その信仰はあまりに堅牢であり、説得によってくつがえすことはきわめて難しい。まして彼らに、「まだ負けじゃない」「自傷みたいだから良くない」「そういうのはナルシシズムだ」などとお説教したところで、なんにもならない。抽象的な言い方になってしまうが、愛に関わる苦しみは、愛によってしか救えない。彼らを愛することは難しいかもしれない。しかしわれわれは「羨望」を含む自らのいびつな愛の形を理解し、まずは彼らをいかに愛しうるか、その作法をこそ考えるべきではないか。

斎藤環著『「負けた」教の信者たち〜ニート・ひきこもり社会論〜』中公新書クラレ 2005年 pp.20-21

 ひきこもり事例では両親に対して密かに「恨み」を持っていることがあります。例えば「こんな惨めな自分が今あるのは、育てた親の責任である」「本当は行きたくない学校に、無理に行かされた」「あの時無理にでも学習塾に入れてくれれば、皆に遅れることはなかった」「いじめられて苦しんでいる時に、気づいてくれなかった」「近所の環境が悪かったのに、引っ越しをしてくれなかった」「中学生からやり直したい。時間を元に戻して欲しい」などのような。
 こうした理不尽とも思える非難の矛先を向けられた時、それでも冷静でいられる親は少ないでしょう。「それは事実ではない」とか「そんな理屈は通らない」といった、「正しい反論」をつい、したくなってしまうかもしれません。しかし、ここでも「正しさ」は、さして重要なことがらではありません。とにかくいいたいことはさえぎらずに、最後までいわせ、耳を傾けること。すでに遮って反論したり、無理に話をそらしたりすべきではないのです。たとえ本人の記憶が不正確で、明らかな事実誤認があったとしても、本人がどのような思いで苦しんできたか、まずそれを丁寧に聞き取ることに意味があるのです。
 もちろん「いつも同じことを、くどくど聞かされるので参ってしまう」とこぼす家族も、少なくありません。しかし、そのような家族は、しばしば本人にいいたいことを十分にいわせていません。本人が最後の言葉をいい終わるまで、じっと聞き役に回り続けることは、かなり困難なことです。「何が正しいか」ではなくて、本人が「どう感じてきたか」を十分に理解すること。それが誤った記憶であっても、「記憶の供養」をするような気持ちでつきあうこと。これは本当のコミュニケーションに入る手前で、どうしても必要とされる儀式のようなものです。
 ただし、注意すべきなのは、「耳を傾けること」と、「いいなりになること」はまったく異なる、という点です。当たり前のようですが、しばしば混同されがちなことです。例えば、、本人が腹立ちのあまり、謝罪や賠償を要求してくることがあります。こうした要求に対しては、原則として応ずるべきではありません。私の推測では、こうした要求は、訴えに対して十分にとりあわなかった家族に向けられがちのようです。訴えを家族に届かせるために、より強烈な表現が選ばれた結果の、謝罪・賠償要求なのです。ですから、やはり大切なことは、本人がほんとうに「自分の気持ちを聞き取ってもらえた」と感ずることです。そのように感ずることで、格別のことは何もしなくても、恨みや要求は次第に鎮まっていくものです。

斎藤環著『社会的ひきこもり〜終わらない思春期〜』PHP新書 1998年 pp.141-143

 社会との一定の関係が成立してはじめて、親の愛情が意味を持つということ。これはどういうことでしょうか。「すべての愛は自己愛である」と、さきほど私は断言しました。これは事実であるかどうかという話よりは、愛というものを分析するには、さしあたりこのように定義するしかない、という約束事のようなものです。しかし、かりにそうであると仮定して、なぜすべての人が自己愛的に、自己中心的にふるまわないのでしょうか。私はそれこそが「社会」の機能であると考えます。つまり、自己愛というものは、それを維持するために必ず、「他人という鏡」を必要とします。他人を愛し、あるいは他人から愛されることによって自己愛を維持することが、もっとも望ましいのです。
 しかし、ひきこもり状態にある青年には、このような鏡はありません。あるのは自分の顔しか映し出すことのない、からっぽの鏡だけなのです。このような鏡は、もはや客観的な像を結んでくれません。そこには唐突に「力と可能性に満ちあふれた自分」という万能のイメージが浮かび上がるかと思えば、それは突然かき消えて、今度は「何の価値もない、生きていてもしょうがない人間」という惨めなイメージに打ちのめされる。このように彼らの鏡は、きわめて不安定でいびつな像しか結んでくれません。ようするに自己愛が健全に(ここでは「安定的に」というほどの意味ですが)保たれるためには、家族以外の「他人」の力によって「鏡」を安定させることが必要なのです。
 人間は、自己愛なしでは、生きていくことすらできません。自己愛がきちんと機能するには、それが適切に循環できる回路が必要なのです。幼児期までは、それは自分と家族との間を循環するだけで十分でした。しかし思春期以降は事情が違ってきます。事情を変えるもっとも大きな力が「性的欲求」のありようの変化です。そう、思春期以降の自己愛は、異性愛を介在させなければ、うまく機能しません。そして異性愛ばかりは、家族がけっして与えられないものなのです。

斎藤環著『社会的ひきこもり〜終わらない思春期〜』PHP新書 1998年 pp.127-128

 学生たち自身がいちばん信じたいことは「自由になりたい」、自由に表現して、裸の私をわかって、毛の一本一本まですばらしいでしょう。全身全霊を込めてそのままの自分自身を認めてください。彼らの自由とはつまるところそのままの自分を認めて欲しい。そういうことなのです。

村上隆著『芸術闘争論』幻冬舎 2010年 p.122

 人のできることを極めたお金持ちが「人を超えたい」と願うのは自然のなりゆきです。過去の超人を探索してゆく中で「天才の見た風景」を見たくなるのも、当然の欲求です。天才の痕跡を目前にすることで、現実の限界を突破するヒントも手に入れたいと願う気持ちには切実なものがあります。成功した人が芸術やスポーツに走るのは超人願望関係しているのです。

 (中略)

 壊れた世界で命を燃やさなければいけないお金持ちの「物足りなさ」が芸術に向かいますから、金銭ですべて解決してきたはずの富裕者の見えない欲望を確認するかのように、精神異常者の作品や性的虐待を含む作品が求められる時もあります。

村上隆著『芸術起業論』幻冬舎 2006年 p.55

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