DOG ON THE BEACH

A season passes. A castle can be seen. Where is a soul without a wound ?

Tag: sexuality (page 4 of 9)

初恋動物園

 先日、福岡市動物園がリニューアルしたとのニュースを眺めていて思い出した事がある。

 僕は幼き頃に連れて行って貰った動物園で、親からはぐれたのか一時独りで行動しており、ふと視界の開けた高台の休憩所ような場所に居た。柵に囲まれ、ベンチがあり、お金を入れて見る事の出来る双眼鏡も在ったように思う。其処で僕は「これ以上の僕の好みに合う女の子は居ない」と思えるほどの同い年くらいの女の子に出会ったのだ。僕は長い事じっと見ていたのであろう、やがてその子も僕に気付いた。ニコっと笑ってくれて僕を見ていた。僕ももちろん見ていた。そのうちにお互いにモジモジし始め、何となく離れがたいような気分になったし、相手もそうであるように見えた。しかし僕は親の元へ帰らねばならない。きっと相手ももそうだろう。一言も発する事はなかったが、離れがたきに耐えるような、胸が締め付けられるような気持ちに陥った。

 という事を、随分と成長した後(成人はしていなかったと思うが、それまでのどの時期だったかは判然としない)に鮮明な映像としてその事を思い出した。という事を今回思い出した。話は複雑なのである。
 そして、最初に思い出した当時(その後何年かに一度くらいは思い出しているが同様に)は、その女の子の表情や着ていた服までもはっきり思い出したくせに、その記憶に自信が持てなかった。何故かと言えば、その光景以外には動物園での記憶が全くないからである。それに僕には、自分の記憶だと信じ切っていたものが事実ではなく、記憶を歪曲したかそれとも夢を見たとしか考えられないという事がたまにあって、それもあってその記憶を疑っていた。考えてみれば都合の良い話だし、動物園には行った事はないような気がするし、たぶんまた夢に見た事を勘違いしているのだろうくらいに考えて、やがて忘れていった。

 で、今回はせっかくなので事情聴取してみた。母が言うには、熊本市動物園には父の運転する車で行った事があり、福岡市動物園には保育園の遠足で行った事があるそうだ。全く記憶にはなかったが行った事はあったのだ。そして、何れにしても保育園の時だが、福岡市動物園は高台に在るので双眼鏡の在る休憩所も在ったかも知れないとの事。僕の記憶にやおら信憑性が出てくる。妙に楽しい気分になってきた。
 しかし疑問はまだある。通っていた保育園には当然女の子も居たし、彼女達に関しても微かな記憶はあるのだがほぼ興味はなく、一緒に遊んでいた男の子達の印象の方が遙かに強い。そして僕は当時で言う保母さんの一人がとても好きで、何となくそれが僕の初恋だと思っていた。そんな男子児童が、上記したような行きずりの女児に一目惚れなんてするだろうかね、という疑問。ああしかし、小学校に入学した僕はフツーにクラスメートの女の子を好きになったりしていたので、もしかしたら保母さんに恋をした後に件の女の子との出会いがあったりしたのだろうか。そう考えると何となく話がうまく収まるような気はするなあ。いやでも「これ以上の僕の好みに合う女の子は居ない」なんて幼児が考えたりするだろうか。その辺りの感情の記憶が歪曲されているのかも知れない。

川床カッフェー

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 左が2001年に上洛した折、詳しくは思い出せないが町屋が寄り集まった区域の掲示板に貼ってあったイベントのポスターなのだが、使っている写真がとても気に入って写真にまで撮ってしまった。一体何の写真なのか気になってはいたのだけれど、何の情報も得られないままで、いつしかその写真の事は忘れ去っていた。そして右は、11年後の去年末に再び上洛した折、河原町の商業ビルの入口の柱に、別なイベントのポスターとして貼ってあった。再び興味は再燃したが、やはり何の手がかりも見つけられなかった。

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 そして今年に入って Tumblr のダッシュボードに前述のポスター写真の原型であろう上記の写真画像が流れてきたのだ。ここで逢ったが百年目、まさに狂喜乱舞した僕であるが、流れて来たのは写真だけで、その他には何の情報も得られなかった。

 全体の雰囲気からして、明治大正期のカッフェーであるように見える。客の男は40代から50代くらいの銀行員ではないかと想像する。二人の女給はとても若そうで、着物や髪飾りが派手なところを見ると舞子だろうか。そしてその二人の間に白い欄干が見える。揚屋でこのような欄干を使う事はないと思うので、もっと新しい施設であろう。仮設のものであるかも知れない。そうすると川床であろうか。そして更にその向こうに見える灯りが賑やかで、河床から見た川向こうの灯りだとすると近すぎるので、隣接した川床の灯りを映しているのだと想像する。右側の影になった方の女給の左手には指輪が光り、金属製の盆の上に乗せられているのはずんぐりとした酒瓶。麦酒であろうか。見ていると色々と気になってくるものである。

 長年に渡り繰り返し使われている写真のようなので、恐らく有名なものであるのだろう。僕の当て推量に間違いがないとすれば、その当時のカッフェーの様子を此処まで濃密に映した資料を他に見た事がない。もしかしたら現代になってセットで撮影されたものかも知れないが、それならそれで凄いと思う。何だろうか、この写真は。もの凄く気になる。というか僕が其処に居たい。

 追記 20131115:Patron of Nightclub Uruwashi having his cigarette lit by geisha というのがこの写真のタイトルであるようだ。撮影者は Eliot Elisofon という、1911年生まれの米国のフォト・ジャーナリスト。1962年3月26日にライフ紙に発表されたものであるようだ。

雨の日の光景

 ふと思ったのだけれど、雨にずぶ濡れになりながら歩く姿が似合うのは、中学生もしくは高校生の男の子だけではないだろうか。

 小さな子供や年寄りは可哀想に思ってしまうからそもそも除外するとして。眺めている側からすると、青年や壮年の男性の場合は見かけるのは大概仕事中だったりするので、頑張ってるなぁとか、大変だなぁとか、何か嫌な事でもあったのかなぁとか、色々と複雑な思いで眺める事になるので美的観点は成立しない。それと同じ年頃の女性である場合は、本人達が雨に濡れる事を非常に嫌がり執拗に避けるし、濡れたら濡れたで地獄にでも落ちたような表情で歩いているので正視するのが難しい。仕事中の女性の場合は、男性に対するのと同じような感じか。で、中学生や高校生の女の子の場合は、一人だとやけに心配になるし、複数だと騒ぐのでうるさい。
 中学生や高校生の男の子は、自分がそうであった時の事を思い起こせば、傘を差すのは嫌いだし、そうするくらいなら寧ろ雨に濡れた方が心地良いと感じていたような気がする。そういう記憶も手伝ってか、彼らが雨に濡れていても一向に心配にならないし、可哀想にも思わない。とても落ち着いた気持ちで眺めていられるので、その姿を美しいと思うのかも知れない。どんな時でもそう思う訳ではないが、例えば季節は夏で、夏の制服を着ていて、緑の多い田舎道だという風に条件を揃えていけば更に良い。これは緑に白いシャツという色の組み合わせが美しいという事が大きいと思う。
 しかしこういう見方は多分に偏見を伴っている気はするし、眺めている人間がもし女性であるなら違った見方をするだろうとも思う。もしかしなくても、中学生や高校生の女の子に対して同じように思うのかも知れない。そうだとすると、あの雰囲気はあの年ごろに特有の質感なのか。それとも見る側の記憶が創り上げた幻影なのか。先日降った雨の日に、白いイヤフォンを耳に突っ込んだまま、半ば俯いた様子で自宅の前の道をとぼとぼと歩いていた少年を見た時にそんな事を考えた。

Light my fire

 昔、小学校高学年の頃の話。いつの間にか仲良くなっていた友人の家が神道系の教会を営んでおり、そこの信者やその子供達が集って行われる催しに時折参加していた。僕の家族は誰一人そこの信者ではなかったのだけれど、何故かしら僕は呼ばれていた。当時はその教会の息子の友人だからだとばかり思っていたのだが、実は、町に初めてその教会が設立される際に、僕の祖父が先代の先生(とその教会では呼ばれている)の家族共々、色々と世話をしたらしい。その話はずいぶん後になって母から聞かされたのだが、恐らくそういう経緯があって僕は気を遣われていたのだろう。でもあまあ、そんな事は本筋と関係ないのでどうでも良い。

 ★

 ある年、夏休みを利用してキャンプが計画された。何処へ行ったのかはまるで思い出せないが、適当なその辺りの山間だったのだろう。僕が育ったのは平野部だったが、その周囲には山々が連なっており、車を走らせればキャンプ施設は結構あちこちに在った。
 その時は、教会の友人の他にも同級生が何人か(その時はかなり大人数が参加していたので、僕の他にも非信者を呼んでいたようだ)居たせいもあって、結構楽しいキャンプだった憶えがある。とは言え、この催しについての記憶はかなり薄く、殆ど一つの場面しか憶えてない。それを今から書く。

 昼間さんざん暴れて、陽が落ちては美味しい夕食(カレーだったと思う)を食べ、それを終えればもうたいしてする事はない。適当な間隔で据えられたテントに潜り込んで、ランタンの灯りを頼りにお互いの顔を確認しながらお喋りに講じるだけである。とは言え、一体何の話をしていたのか。人間というよりもまだ、動物に近い生き物である小学生男子にたいした話がある訳もない。どうせ学校での噂話にでも花を咲かせていたのだろう。それか、それ以前に話もせずにただふざけ合っていただけかも知れない。そんなものだ、小学生男子なんて。
 ところが、その幼稚な夜に未知なる存在が訪れた。僕の知らない信者の娘とその友人である。その二人が一体どういうつもりなのか男子の森に前触れも無く侵入して来たのだ。僕は全く知らない人(しかも年上の女の子)の登場にものの見事に動揺し、口もきけないでいたのだが、教会の息子である友人と、もう一人の友人には共に二歳上の兄があり、そのどちらもが侵入者である女の子達と同級生だかクラスメイトだかで面識があるようだった。まあ、それ以前に教会内で何度か顔を合わせた事があるのだろう。とにかく、二人は臆することも無く(しかし幾らかは興奮気味に)その夜の侵入者と喋っていた。
 僕はと言えば、相変わらずムッツリ黙り込んだまま会話を聞き流していたと思う。そりゃあ仕方ないだろう。そんな経験した事がなかったのだから。ここでひとつ説明を加えておくが、侵入者の二人は共に美しく、片方は黒髪で目が大きく、唇の厚い元気な女の子。片や一方は全体的に色素が薄く、顔の造作もやや冷たい感じのどちらかと言えば控えめな女の子であった。彼女達のそういった様子も相まって、僕はとにかく緊張して黙り込んでいた。ところが、である。

「あんた大人しかねぇ」

 一言も喋らない僕を気遣ったのか、前述の後者に当たる女の子が突然僕に話しかけてきたのだ。しかしそこではない。重要なのはそこではなく、その時の彼女の所作である。彼女は僕の顔を見据えたまま、なんと僕の剥き出しの膝小僧を撫でてきたのである。僕は飛び上がらんばかりに驚いた。はずなのであるが実はその辺りの事はよく憶えていない。どうせ「う、うん」とか口ごもっただけであろう。そんな行動に対応するようなスキルも根性も持っていたはずはない。今をもってすれば、考えるまでもなく僕は彼女にからかわれただけだ。こちらは毛も生え揃わぬ子供であり、彼女は既に思春期真っ只中である。対等である要素など何処を探しても見つかりはしない。
 そしてその時の後の事は一切憶えていない。恐らく、彼女達が退屈してさっさとテントを出て行ってそれで終わったんじゃなかろうか。何かが起きたりはしないと思う。小学生だし。

 彼女達の事はその後何度も見かけてはいる。例えば僕が中学校に上がった時に彼女達は未だ三年生で、時折校内で見かけはするのだが、地方のそのまた田舎では、派手で元気な人達はたいがい不良グループ(当時はまだヤンキーという言葉はなかった気がする)に属しているもので、つまり、彼女達を見かける際には漏れなくその周囲に怖い先輩達が集っているので、もし僕にそんな勇気があったとしても、とても話しかけられるような雰囲気ではなかった。僕がその女の子を想っていたという事はなかったと思うが、意識の端っこには居たような気がする。少なくとも中学の時までは。いや、そうでもない気がして来た。僕の女性へ対する好みの一部としては受け継がれているかも知れない。
 そして数年後、再び僕は彼女と邂逅した。どういう場であったか、これまた全く記憶に無いが、社会人となった彼女は何処かの化粧品メーカーの美容部員として働いており、化粧も巧みで更に美しくなっていた。この人はホントに綺麗な女性なんだなー、と想った記憶のみが残っている。

 ★

 長々と書いてきたが、たったこれだけの話である。別に面白くも無いし。しかしこの話は何年かに一度は思い出すので、せっかくなので文章として残しておこうと考えたのである。人の記憶は年月を経て行くと共に細部が誤魔化され、都合の良い美しさを増していくものだが、このまま放っておくと酷い事になりそうな気がしたので取りあえず書いてみた。

12月のネオン

 去年のクリスマスの少し前だっただろうか、僕は夜の新宿を歩いていた。新宿通りの左側の歩道をJR新宿駅から三丁目へ向かって。そしてちょうど伊勢丹の入口、ショーウィンドウの光が溢れている辺りに差し掛かった時、僕の視界には歩道から外れた位置で二人の男が向かい合っている姿が入ってきた。二人とも体躯が大きく短髪で、ブルージーンにスタジャンを着ていた。例えるならば、大学か若しくは社会人のラグビー部のチームメイトという感じであった。共に 180cmは優に超えるであろう身長なので、百貨店前の人混みの中でも頭ひとつ飛び出ており、とにかく目立つ二人連れであった。そしてそんな彼らは向かい合って何をしていたのかというと、両の手を繋いでお互いの顔を見つめ合っていたのだ。とても幸せそうな表情で。
 新宿を東に向かって歩いて行けば、ゲイのカップルを見かける事はそう珍しい事ではない。しかし彼らほど幸せそうに見えるカップルを僕は見た事がなかった。僕の眼鏡に色が着いていたのかも知れないが、大体は少し緊張した面持ちで、殊更に堂々と振る舞おうとしていたように思う。だからだろうか、彼らの姿が僕の目にはとても新鮮に映ったのだ。しかし僕が持った印象はそれだけでは説明できない。洪水が如き人波に押し流されて、僕は立ち止まる事も出来ないまま彼らの傍らを通り過ぎた。夜の影を歩む僕の目が捉えたものは、粉飾された幸福の模倣などではなく、ただただ幸福な二人の人間の姿であった。そういう人達を見かける事は希だ。殊更に騒ぎ立てる必要もなく、好きな人とお互いに見つめ合いながら微笑む事が出来るというのは、なんと幸せな事だろうか。良いものを見せて貰った。そう思いながら僕は横断歩道を渡った。

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