DOG ON THE BEACH

A season passes. A castle can be seen. Where is a soul without a wound ?

Month: August 2007

夜の帳の酒の日々

 常用する酒が日本酒になってから随分と経つ。以前は、日本酒を呑むと酔いの回りが早いし翌日に残る為余り呑まなかった。それが何故か去年辺りから平気になってきて、元々味は気に入っていたので段々と呑む機会も増えた。そして気がつけば、殆ど一年中日本酒を呑んでいる。さすがに先日までの夜でも30度を下らないような日には、日本酒は濃過ぎて喉ごしが悪いので麦酒か焼酎を水で割って呑んでいた。今思えば、酒量がやたらと増えたのは日本酒を常用するようになってからのような気がする。

 昔、甘口のワインと日本酒とに続けざまに悪い酔いしてからというもの、甘口の酒は呑まないようにしてきた。だから僕は基本的に辛口の酒しか呑まない。甘い酒を口にすると嫌な記憶が蘇るからだ。例外としてキールは呑む。但しこれは外で食事をする際に限る。わざわざ作らなくてはならない酒など、部屋で(しかも独りで)呑む訳がない。
 こういう習慣を頑なに守り続けていると、たまに困る事もある。例えば、今年の初めに京都に旅した時の事。旅館での夕食時に酒を頼もうとして、せっかくだから京都の酒を呑もうと仲居さんに訪ねたところ、京都の酒はみな甘口であるという。京料理には甘口の酒が合うという事なのだろうか。そんな気もする。随分と迷ったが、やはり怖いので辛口の酒を頼む事にした。

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 辛口の日本酒が好きな訳を考えてみた。僕の場合、夕食に何を食べるかは、その日呑みたい酒に拠って決まるのだが、前述からも解るように最近は殆どが和食で、醤油や味醂や塩で味付ける食べ物ばかりだ。中でも醤油や塩で辛く味付けした物を肴に日本酒を呑むと、辛口の酒が時折甘みを帯びて感じられる。その味覚がとても好きなのだ。勿論呑む酒にも拠るし、その時の気候にも拠るのだけれど、甘く滑らかな酒が余りに清らかで、ミネラルウォーターよりも遙かに清潔に思えるのである。
 そんなところが気に入って僕は日本酒を毎晩呑んでいる。それとは逆に、そういうところが気に入っている時期だからこそ呑めない酒というのが在って、赤ワインやマッコリや濁酒は、今はどう考えても呑む気になれない。

 そう言えば、何年か前に巣鴨と大塚の中間辺りに在るモンゴル料理屋で、アルコールが60度の焼酎を呑んだ事があった。特別な酒みたいで、常用として呑むものではないという事だったのだが、臭みは全く無く、無色透明で、強烈な口当たりで、表現が大袈裟だとは思うが、僕は宝石を呑んでいるような感覚を持ったのである。店の名前も、酒の名前すらも忘れてしまったが、あんな酒を呑んだのはあれきりである。

荷物のダイエット

 暫く前から、既にこの部屋にはCDや本を収納するスペースが無くなっている事に気付いてはいたのだけれど、床に直置きするなどして誤魔化してきた。しかしもう限界である。いやまあ、床に隙間は在るのだけれど、そうすると掃除が出来なくなる。今は未だ一部分にしか置いていないので、掃除する際にはそれを移動させて掃いたり拭いたりしているのだが、床の大部分に物が置かれてしまうと、もう移動させるスペースすら無くなってしまうのだ。
 とまあ、そんな感じで、そろそろCDや本を手放すか貸し倉庫などに放り込むかしなければならない。

 僕は、何か気に入ったものを見つけると、その前後のものも含めて取り敢えず揃えてしまう性分である。但し、それを後生大事に保管し続けていく事には興味が持てない。つまり、独占欲は在るが維持能力に欠けるのである。
 そういう自分の性格を思えば、倉庫を借りてそこに保管する事は有り得ない。そうすると手放すしかないのだが、その選定が難しいのだ。数年前にも同じような状況に陥った事があり、その時は本は1/3か1/4くらいは捨てる事が出来たのだけれど、CDは4・5枚しか捨てる事が出来なかった。捨てようと思ってCDを手にとって眺めてしまうと「またいつか聴きたくなるかも知れない。」と考えてしまい、捨てる事が出来なくなってしまうのだ。そうして、たいして数を減らす事が出来ないまま今日まで来た。この意地汚さは執着心なのだろうか。

 この状況を打破するには新たな判断基準が必要である。例えば「今現在の自分に必要なもの以外は全て捨てる。」感じの。先日、ロバート・ハリスの「ワイルド・アット・ハート」を読んでいたら、後書きに氏の住むマンションをリフォームする際に、持っていた膨大な音源を気に入りの30枚に絞ったと書いてあった。そんな選定はとても無理だ。結婚するとか子供が生まれるとか、そんな現在の生活がひっくり返るような契機があれば出来るのかも知れないが。

空蝉

 今朝の事。駅へと向かう往来はいつもより少し静かで、雲ひとつ無い薄い青空は昨日よりも高く感じられ、傍らを走る電車の車輪が軋む音も何処か空々しく、路地を吹き抜ける風がこの季節には適さぬほどに乾いていた。何かが終わってしまうような、それでいて何かが始まってしまうような、そんな匂いがしていた。
 とは言え、数時間も経てば、僕は日常に流され、埋没し、朝に感じた自身の生活に対するよそよそしさの事など忘れてしまっていて、ひたすらに汗をかき喋っていた。何かを終えるにしても始めるにしてもうってつけの日に、僕はただ生活していた。
 そしてこうやって、夜になり再び独りになって思うのは、置き所の無い己の心を一体何に乗せれば良いのか。乗せるのでなければどう踏み外せば良いのか。微かな酔いの波に揺られながらずっと考え続けている。

さくらん / 蜷川 実花

 何だか勿体ない。蜷川実花と土屋アンナと椎名林檎を持ってきたのは良いと思うのだが、話の流れが淡々とし過ぎている、というより急ぎ足で原作をなぞっているだけという感じがして、物語を楽しめない。役者を揃えて、それを蜷川に撮らせたかっただけという印象ばかりが残る。美術や画自体は結構気に入ったのだけれど。
 そしてラストが本当にしょーもない。最後に光を求めるのならば、例えばもっと絶望的な世界観を持った女性の監督を据えた方が良かったのではないだろうか。全体が平坦過ぎて、希望を光として見つめる事が出来ないのである。

吉原と島原 / 小野 武雄

 先日再読してみた。この手の本は一度読んだだけでは極一部を覚えているだけでその他は全然頭に入っておらず、暫くしてか、若しくは数年後に再読すればその度に色々と気付く事があるものである。そりゃそうである。著者が膨大な時間とエネルギーを注いだ本を初見で覚えられるはずもない。第一僕は記憶力が薄い。すぐに色んな事を忘れてしまう質なのだ。そして今回、面白く読んだ部分は多々在ったのだけれど、その中で最近の僕の思考の流れに沿う部分を一部抜粋して話をしようと想う。

 客と遊女が本当に惚れ合い、離れ難い気持ちになると、とりわけ富豪の息子が夢中になって熱をあげると、遊女は彼を手放したくないと切望して、誓いの言葉を述べるだけでなく、最も権威あるものといわれる熊野神社の午王宝印の起請文にならって、夫婦になる起請文を書いて、神仏に誓う。

 落語「三枚起請」(僕自身はその話は知っているのだけれども、まともに落語としては未だ聴いていない)でも知られる誓いだてですな。武将の盟約にもよく使用されたらしく、誓いとしては厳格なものであったようである。(余談:実は三枚起請の下げの意味がよく解っていなかったのだが、此処にその解説がされていた。僕はまだまだ勉強が足りない。)とまあ、そういう事らしいのだが、しかしながらこれが今回の主たる話ではない。流れを作る前文として書いたまでだ。引用元の本には上記に続いてこう在る。

 さらにそれだけで不足ならば、遊女は真実の意を示す証拠として、小指を切断して男へ送る。

 漫画「さくらん」にも出てきた話だ。切断した小指を送りつけられるなんて、日常的な精神状態であれば脅迫という観念さえ越えて恐怖以外には思えない行為であるが、ロミオとジュリエットの類とは全然違った嗜好性に酔って、盛り上がりに盛り上がった当事者にとっては当然な流れなのかも知れない。更にこう在る。

 また、客とともに互いに腕に、○○(遊女の名)の命、××(客の名)の命と入墨をして、見せ合う。

 これを読んで「お。根性彫りてえのはその頃から継承する習慣だったのか!」と思ったりしたのだけれど、よくよく眺めていると少し感じが違う。「名前」と「命」の文字の間に「の」が入るらしいのだ。僕の認識で言うならば「千明命」だとか「静香命」という風に刻まれるはずである。その意味合いとしては「おいらは千明を命を懸けて愛するんだぜ!」または「おいらは静香を命を懸けて愛しているんだぜ!」とか、どちらかと言えば一方的な想いを告白している感じである。
 しかし江戸吉原で流行った入れ墨は「の」一文字が入っているだけで、その意味合いは「おいらは夕霧の命と謳われるほどの男なんだぜ!」となってしまう。相思相愛。お互いが最上の情夫(婦)である事を前提とした宣言文である。何だかえらい事になっているのである。これに比べたら「の」が入らない入れ墨なんぞ稚拙な自演に過ぎない。しかし傍から笑って見ていられるのもこちらである。相思相愛の上での入れ墨なんて笑えない。そういうのは他人に見せてはいけないものだ。上記の引用文から察するに、お互いが確認する為だけに行われた風習であるようだ。深く絡み合った情愛は二人以外の世界を排除してしまうのだろう。

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