DOG ON THE BEACH

A season passes. A castle can be seen. Where is a soul without a wound ?

Month: November 2015 (page 1 of 3)

 西洋の美術の世界で最初に認められた日本人美術家は葛飾北斎です。北斎は町絵師で生前の社会的な地位は低く、当時の日本の主流には背を向けていた人物です。宮廷画の「本画」に対抗して自ら「漫画」呼んだ本道から外れた作家・・・・・・それが日本の芸術の代表者なのです。しかも北斎は西洋で認められているとは言え「欧米の美術の歴史を補完する素材としてのジャポニズム」の中にいる周辺人物に過ぎない。日本の異端は欧米の評価を受ける。日本の本道は欧米の評価を受けない。現代に通じるこの流れを日本人は意識すべきです。

村上隆著『芸術起業論』幻冬舎 2006年 pp.117-118

 アメリカ主導の美術の世界に、「日本の文化との折衷案としての新しい文脈」を提示し続けるうちに、ぼくの中には、澱のように解決不能の事柄が数多くたまってくるようになりました。「必死に学んだアメリカのルールといつかお別れをしなければならないのかもしれない」そんなことを思わないではないんです。もちろん、現状はズレはじめています。しかし「作品を通して世界美術史における文脈を作り上げること」は。今でも世界における美術作品制作の基本であり続けています。まだ欧米のルールは有効なのだから、世界で勝負をしたいと願う今の表現者はまだ欧米のルールを学ばなければならない。

 東洲斎写楽や葛飾北斎の作品を理解するためには一定の教養が必要になります。なぜなら写楽も北斎も欧米の美術史の中で評価されたからです。評価された角度も、「ハイアートの中のジャポニズムに位置づけられた」という限定条件の中にいるわけです。ジャポニズムの文脈がわからなければ、西洋で理解されている根拠もわからないのです。つまりそれでは作品を見る視点さえ見誤ることになります。
 海外の美術の世界は「すごい」と思われるかどうかが勝負の焦点になっています。お客さんが期待するポイントは、「新しいゲームの提案があるか」「欧米美術史の新解釈があるか」「確信犯的ルール破りはあるか」といずれも現行のルールに根ざしています。

村上隆著『芸術起業論』幻冬舎 2006年 pp.108-109

 ぼくは小さい頃から絵を描いてきました。というか、誰もが描きますけど。大学では日本画を学び、ある時から、純粋芸術の世界に足を踏み入れました。そこで判明したのは、純粋芸術の世界では、決まりのあるゲームが行われているということです。茶道や華道で作法をわきまえない行為が否定されるように、西洋の美術の世界でルールをふまえない自由は求められていません。不文律をわきまえた独創性が求められていることは明らかです。
 日本は十九世紀後半に開国しました。そのせいか、十九世紀当時の欧米の芸術をいまだに重視しているところがあります。十九世紀の芸術の最先端は「自発性」で、この時期の芸術は、「アーティストが、パトロンから決別してゆく」というのものでした。十九世紀の芸術に流通した「自発性」は長い芸術の歴史の中ではむしろ例外的なルールなのですが、日本ではいまだにこれこそが芸術だと信じられています。日本では「魂の叫び」みたいなグネグネした作品をただ一人で作ることこそが芸術だと思いこまれているのですけど、ほとんどの時代の芸術はそうではないのです。

村上隆著『芸術起業論』幻冬舎 2006年 pp.106-107

 葛飾北斎はおそらく天才でした。彼の作品は空白状態の偶然から生み出されたものでしょう。ただ、彼は欧米の世界では高く評価されていますが、生前の日本では町絵師の域を脱しえませんでした。天才が空白状態の中で作るものは歴史をガラリと変える可能性もあるのですけれども、水準が高すぎたり時代の先に行きすぎたりしているために、リアルタイムでは正当な評価を受けられないかもしれないのです。様々なしかけを組みこんで、現在の人や社会とコミュニケーションするべきか。偶然に作っちゃったもので、未来の人や社会とコミュニケーションするべきか。このあたりは考えるほど矛盾に満ちた世界が広がっているのです。そもそも芸術表現の世界は矛盾で満ちています。しかけのある作品でないとなかなか認められないという美術界の構造はおそらく天才でない大半の芸術家のために生まれたのだと思います。歴史や民俗を取りこんだ作品制作はあざといことでしょうが、凡人には必要な試行の過程なのです。日本人の作るものが世界に受け入れられはじめる入口は、今はまだまちがいなく「エキゾチック」というところですから、そこからどこまで美術本体に入りこめるのかが勝負になると思います。

村上隆著『芸術起業論』幻冬舎 2006年 pp.104-105

 集団のもの作りにはピラミッド構造がどうしてもできてしまうのです。ゴールを見つけて指示を出す側と、作業を積みあげてゆく側と・・・・・・監督的な立場の人間は問題解決に集中すべきで、現場での技術の習得とは離れた立ち位置にいるのです。閃きの純度を高くキープする。自分でやるとなると自分でできるレベルまで閃きのレベルを落とさなければならなかったりしますから。発注したりアシスタントを養成したりしていると、自分ではできない閃きをあきらめなくてもよい。あきらめないで純度の高いものをひろえるチャンスを手に入れられるのです。

村上隆著『芸術起業論』幻冬舎 2006年 p.101

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