DOG ON THE BEACH

A season passes. A castle can be seen. Where is a soul without a wound ?

Month: September 2016

 私が今回検証しようと考えていた最大の課題は、「儒教文化圏」の問題である。世俗化された儒教のイメージは、韓国はもとより、わが国においてもけっして過去の遺物ではない。例えば、この文化圏における「自立」とは、必ずしも個人が家から出ていくことを意味していない。むしろ家に留まり、両親の生活を支えながら生きていく「孝」の姿こそ、成熟の望ましいあり方なのだ。「四世同堂」は四世代が同居するという理想的家族のあり方だし、「養児防老」は老後のために子どもを育てるという、これまた一種の理想像を示す言葉だ。ここから儒教文化が一種の「同居文化」であり、その逸脱形態がパラサイト・シングルでありひきこもりなのではないか、という推測が可能になる。
 儒教文化との関連で言えば、ほかに「科挙」を考慮すべきかもしれない。いうまでもなく科挙とは、四書五経など、儒教の知識を問う官吏任用制度である。ペーパーテストに通れば、誰もが特権階級たる官僚になれる。かくして、一族の名を挙げるべく、青年が長期労働に関わることなく勉学に励むことに寛容な文化が育まれるのだ。これはそのまま青少年が、長期間の受験浪人生活からひきこもりに至る状況に通底するだろう。

斎藤環著『「負けた」教の信者たち〜ニート・ひきこもり社会論〜』中公新書クラレ 2005年 pp.56-57

 精神分析によれば、人間はすべて「自己愛」を持つとされる。それはなにも、「エゴイズム」とか「自己中心」ばかりを意味しない。むしろ自己愛は、人間が欲望を持ち、また他者を愛するための基盤として、必要不可欠なものなのだ。
 コフートは人間の一生を自己愛の成熟過程としてとらえている。この発達に際して重要なのは「自己ー対象」との関係である。「自己ー対象」とは、自己の一部として感じられるような対象のことだ。乳児にとっては母親が最初の重要な「自己ー対象」となる。自己はさまざまな「自己ー対象」との関係を通じて、その対象から新たな能力を取り込んでゆく。この取り込みの過程は「変容性内在化」と呼ばれる。
 ここでコフートは、自己が発達するために必要な三種類の自己ー対象関係を考えた。これが「鏡自己ー対象」「理想化自己ー対象」「双子自己ー対象」である。「鏡自己ー対象」関係とは、「なんでもできるすごい僕」といった誇大な自己を受け入れ、ほめてくれる母親との関係である。「理想化自己ー対象」関係は、スーパーマンのように理想化された親のイメージとの関係である。このふたつの「自己ー対象」関係が、「野心」と「理想」という、自己にとって重要な二つの志向を決定づける。
 しかし、これだけでは十分ではない。ここでコフートが重視するのは、「双子自己ー対象」関係である。これは、自分と他人は同じ人間であるという同胞意識に近いものだ。この関係こそが、さきにふれた「野心」と「理想」の間に生ずる緊張によって活性化される。才能や技術などの施行機能を発達させるという。そして、主にこの関係をになうのが、家族以外の対人関係にほかならない。ここで、仲間関係が「施行機能」の発達において重要であることに留意しておこう。
 ちなみにコフートによれば、人間の心理で最も重要なことは、その心を凝集的な形態に、つまり「自己」に組織化することであり、自己と環境との間に、自己支持的な関係を確立することでもあるとされる。ここでコフートは、母親のあり方の重要性を強調するのだが、そのことは、今は措く。最も望ましい発達は、青年期や成人期を通じて、支持的な対象が持続することなのだ。「ひきこもり」に問題があるとすれば、それはまさに、望ましい「支持的な対象」との関係が途絶してしまうことによるだろう。

斎藤環著『「負けた」教の信者たち〜ニート・ひきこもり社会論〜』中公新書クラレ 2005年 pp.47-48

 たとえばラカン派哲学者のスラヴォイ・ジジェクがかねてより指摘する「消えゆく労働者階級」の存在がある。ジジェクによれば、もはや単純作業や肉体労働は、われわれの目には見えてこない。それは事実上、第三世界などに下請けに出されることで、すでに犯罪などと同じ位置に置かれているのだという。そう、私たちはメディアという幻想の覆いによって、常にすでに「世界」から隔てられている。すべてを見ることができるとうっとりさせてくれる鏡の前では、むしろ私たちは分別を失う。そこには例えば、湾岸戦争で米軍が使用した劣化ウラン弾による後遺症も、中国による半世紀に及ぶチベット弾圧も、ロシア軍によるチェチェンでの虐殺行為も、インドネシア政府が暴力的な植民地政策を続けている西パプアの実情も、ほとんど映し出されることはない。
 だから私たちは、「媒介的リアリティ」への感受性を十分に鍛えておく必要がある。そのような姿勢こそが、いまや世界を覆いつくした「メディア幻想圏」の一角に懐疑と内省の楔を打ち込むのだから。

斎藤環著『「負けた」教の信者たち〜ニート・ひきこもり社会論〜』中公新書クラレ 2005年 pp.29-30

 一人の勝者もいない戦場で、ひたすら敗走を続ける若者たち。私はそんなイメージを抱いてしまうが、いささかロマンチックすぎるだろうか。しかしどうしても疑問は残る。彼らが事実関係のいかんにかかわらず「負け」のイメージに固執するのは、いったいなぜなのか。そこにどんな「メリット」があるというのだろうか。
 現時点での、私の推測はこうだ。彼らは、負けたと思いこむことにおいて、自らのプライドを温存しているのではないだろうか。現状の自分を肯定する身振り、すなわち自信を持って自己主張することは、批判のリスクにまっさきにさらされてしまう。むしろ現状を否定することで、より高い理念の側にプライドを確保することが、彼らが「正気」でいられる唯一の手段なのではないか。その意味では、「負けたと思いこむ」こともまた、ナルシシズムの産物なのだ。「負けていない」と否認することによって、自らの「正気」すら手放してしまうのではないかという恐れが、彼らをして「負け」に固執させてしまう。この、あまり過去にも他国にも例のない自己愛の形式を、かりに「自称的自己愛」と呼ぶことにしたい。
「『負けた』教の信者」とは、まさにこの「自称的自己愛」にしかすがることのできない若者たちのことを指している。その信仰はあまりに堅牢であり、説得によってくつがえすことはきわめて難しい。まして彼らに、「まだ負けじゃない」「自傷みたいだから良くない」「そういうのはナルシシズムだ」などとお説教したところで、なんにもならない。抽象的な言い方になってしまうが、愛に関わる苦しみは、愛によってしか救えない。彼らを愛することは難しいかもしれない。しかしわれわれは「羨望」を含む自らのいびつな愛の形を理解し、まずは彼らをいかに愛しうるか、その作法をこそ考えるべきではないか。

斎藤環著『「負けた」教の信者たち〜ニート・ひきこもり社会論〜』中公新書クラレ 2005年 pp.20-21

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