たとえばラカン派哲学者のスラヴォイ・ジジェクがかねてより指摘する「消えゆく労働者階級」の存在がある。ジジェクによれば、もはや単純作業や肉体労働は、われわれの目には見えてこない。それは事実上、第三世界などに下請けに出されることで、すでに犯罪などと同じ位置に置かれているのだという。そう、私たちはメディアという幻想の覆いによって、常にすでに「世界」から隔てられている。すべてを見ることができるとうっとりさせてくれる鏡の前では、むしろ私たちは分別を失う。そこには例えば、湾岸戦争で米軍が使用した劣化ウラン弾による後遺症も、中国による半世紀に及ぶチベット弾圧も、ロシア軍によるチェチェンでの虐殺行為も、インドネシア政府が暴力的な植民地政策を続けている西パプアの実情も、ほとんど映し出されることはない。
 だから私たちは、「媒介的リアリティ」への感受性を十分に鍛えておく必要がある。そのような姿勢こそが、いまや世界を覆いつくした「メディア幻想圏」の一角に懐疑と内省の楔を打ち込むのだから。

斎藤環著『「負けた」教の信者たち〜ニート・ひきこもり社会論〜』中公新書クラレ 2005年 pp.29-30