私が今回検証しようと考えていた最大の課題は、「儒教文化圏」の問題である。世俗化された儒教のイメージは、韓国はもとより、わが国においてもけっして過去の遺物ではない。例えば、この文化圏における「自立」とは、必ずしも個人が家から出ていくことを意味していない。むしろ家に留まり、両親の生活を支えながら生きていく「孝」の姿こそ、成熟の望ましいあり方なのだ。「四世同堂」は四世代が同居するという理想的家族のあり方だし、「養児防老」は老後のために子どもを育てるという、これまた一種の理想像を示す言葉だ。ここから儒教文化が一種の「同居文化」であり、その逸脱形態がパラサイト・シングルでありひきこもりなのではないか、という推測が可能になる。
 儒教文化との関連で言えば、ほかに「科挙」を考慮すべきかもしれない。いうまでもなく科挙とは、四書五経など、儒教の知識を問う官吏任用制度である。ペーパーテストに通れば、誰もが特権階級たる官僚になれる。かくして、一族の名を挙げるべく、青年が長期労働に関わることなく勉学に励むことに寛容な文化が育まれるのだ。これはそのまま青少年が、長期間の受験浪人生活からひきこもりに至る状況に通底するだろう。

斎藤環著『「負けた」教の信者たち〜ニート・ひきこもり社会論〜』中公新書クラレ 2005年 pp.56-57