DOG ON THE BEACH

A season passes. A castle can be seen. Where is a soul without a wound ?

Month: October 2016

 ラカン派哲学者のスラヴォイ・ジジェクは、しばしばシニシズムについて語る。ある種のシステムや規範のもとでは、人々はそれが嘘であることを知っているにもかかわらず、あるいは知っているからこそ、それに進んで従うのだと彼は言う。
 本書でも私は、シニシズムを規範的に広めたテレビというメディアが、このところシニカルさを喪失しつつある危険を指摘した。対象や行動の価値を信じすぎないこと、ほどほどの距離を維持することは、ときには動機と倫理性を維持する上で欠かせない姿勢でもある。いわゆる「シラけ世代」は、まさにシニカルさの初期段階というべき世代でもあった。しかしこの世代から膨大な数のオタクが生まれたように、シニカルであることは必ずしも行動を抑制しない。むしろ旧世代の価値観に縛られない、巨大な趣味の共同体がもたらされたのだ。
 シニカルさはその後も形を変えて維持された。しかし振り返ってみると、九〇年代はこうしたシニカルさの作法がゆっくりと減衰していった時期だったのかもしれない。われわれはもはや、対象との間にシニカルな距離を維持できなくなりつつある。対象にシリアスにかかわるか、徹底した無関心か。コミットメントとデタッチメントの二者択一しかなきがごとしである。たとえばわれわれが、まさに目の当たりにしつつある戦争。もはや人々は、戦争に対してシニカルに構えることができなくなっている。可能な選択肢は「ブッシュとフセインの、どちらがよりましな『悪』であるか」しか残されていない。
 こうしたことが、若い世代にあっては「自己イメージ」について起こりつつあるのではないか。すなわち「本当の自分」にひたすら固執し続けるか、まったく執着しないか。後者についてはひとまず措こう。自己イメージとのシニカルな距離を維持できなくなると、人は既成の自己像に縛られる。その結果、自己が成長し変化しうる可能性に対して、強い不信と恐怖が芽生えてくる。かくしてもたらされる、「ダメな自分はダメなままである」という信念は、行動や他者との出会いへの意欲を徹底して抑圧するだろう。そうした抑圧が緩慢な衰弱死や集団自殺を呼び込んだとしても、もはや私は驚かない。

斎藤環著『「負けた」教の信者たち〜ニート・ひきこもり社会論〜』中公新書クラレ 2005年 pp.221-222

 それにしても、なぜ刑務所でこのような不祥事が頻発したのだろうか。これに関連してかつて興味深い心理実験がなされたことがある。
 それは、一九七五年に、スタンフォード大学で行われた。『シャイネス』のベストセラーで知られ、アメリカ心理学会の会長でもある心理学教授のフィリップ・G・ジンバルドーは、健康なアルバイト学生二〇人を募集し、コイントスで囚人役と看守役に分けた。彼らは実験のルールを説明され、合意のもとで「刑務所ごっこ」の実験に参加したのである。演出はなかなか凝ったもので、囚人役の学生は、実際に警官によって自宅で「逮捕」され、裸で身体検査を受けた後に囚人服を着せられて写真を撮影され、地下実験室に監禁された。看守役は、制服と警棒、警笛、手錠を与えられ、匿名性を保つべくサングラスを装用し、交代で囚人の監視をさせられた。囚人は常に番号で呼ばれ、睡眠、食事、トイレなど、あらゆる面で厳重に管理される。違反者にはペナルティが加えられ、暴力は禁じられていたが言葉による侮辱などは禁止されていない。その結果、何が起こったか。
 わずか二日後に囚人役の学生は、ひどく受動的で卑屈な態度に変わり、看守の指示に容易に服従するようになっていた。逆に看守役は、残忍で権威主義的な態度へと変わり、深夜に囚人役をたたき起こして無意味に点呼をとる、といった虐待まがいの行為を繰り返すようになったのである。精神病様の反応を起こして、実験から離脱する学生もいた。結局、二週間を予定していたこの実験は、わずか六日目にジンバルドー自信の指示で中止となり、以後この種の実験は、心理学実験倫理綱領によって禁じられることになった。ちなみに、二〇〇一年にドイツで大ヒットした映画 “Das Experiment”(『es』のタイトルで、日本でも公開された)は、この実験をモデルにしている。

斎藤環著『「負けた」教の信者たち〜ニート・ひきこもり社会論〜』中公新書クラレ 2005年 pp.160-161

 さらに虐待に関して言えば、(今回は見送られたが)警察官の「強制立ち入り調査権」を認めて欲しいという現場の声も切り捨てるわけにはいかない。虐待の可能性がきわめて高い家庭を訪問したさいに、ドアの向こう側にいますぐにでも救われるべき子どもの存在を確信しながらも、チェーンを壊して強制的に立ち入りできない現場職員の無念さは、想像するにあまりある。とりわけ、それができていれば死なずに済んだ事例が少なくないことを思えば、これはいかにも切実な問題だ。しかし一方で、子どもを救うためとはいえ、人権侵害にもひとしい強制立ち入りを安易に認められないのは当然とする意見も無視はできない。「子どものいのちを救うためなら、人権などなにほどのものでもない」という意見は、われわれが陥りやすい「俗情との結託」(大西巨人)にほかならないからだ。

斎藤環著『「負けた」教の信者たち〜ニート・ひきこもり社会論〜』中公新書クラレ 2005年 p.146

 二〇〇四年六月一日午後〇時半ごろ、長崎県佐世保市立大久保小学校の「学習ルーム」で、同校六年生の女児が、同じクラスの十一歳の女児に殺害された。加害者(A子とする)は返り血を浴びた状態で教室へ戻り、学習ルームで首をカッターナイフで切られた被害者(B子とする)の遺体が発見された。A子とB子はもともと非常に親しく、交換日記をしたり、お互いのホームページ(HP)のIDやパスワードを交換しあうほどの仲だった。殺害の動機としては、たまたまふざけあっている時に、B子がA子のことを「重たい」と行ったことに端を発し、お互いのHP上に相手を非難する書き込みをして、そのことをめぐって口論になるなどするうち、A子の側に殺意が芽生えていったようだ。

 (中略)

 とりわけB子が言ったとされる決定的な言葉「重たい」の意味は、その事実性のいかんにかかわらず注目されるべきだ。「見られる身体」を意識しはじめる思春期女子にとって、外見の指摘は時に致命的である。私も職業柄、この年齢の女子に対して、たとえ求められても外見上の事柄にふれることは一切しない。「ほめ言葉」にも傷つくほど、予測不能の反応や影響を引き起こすことを、経験的に知っているからだ。

 (中略)

 ネットカルチャーに関して言えば、この事件で特異だったのは、通常問題となる匿名性のほうではなく、「現実の絵関係」と「バーチャルな関係」が重ねられるという状況のほうであったように思われる。
 おそらくこの領域に関する研究は、韓国のほうがはるかに先を行っている。先日、韓国でオンラインゲーム中毒の治療と予防にたずさわっている精神科医と話す機会があった。

 (中略)

 この精神科医は、サイバー空間への没入が人間を退行させる危険性について危惧していた。私自身も、サイバー空間が一種の鏡像空間であり、他者性の介在が弱いがゆえに攻撃性が先鋭化されやすい傾向を指摘したことがある。掲示板やメーリングリストでの「フレーミング」などをみれば、この点は容易に理解されるだろう。しかし通常は匿名性に守られて、攻撃性が実際に行動化されることは少ない。むしろ行動化されにくいことを担保として、攻撃性がネタ的にエスカレートすることすらある。しかし、日常的に顔を合わせる仲間と「フレーミング」が起こったらどうなるか。これはいまだに未知の領域だが、これから確実に問題となってくる。ネット利用者の増加と低年齢化が、それを即すだろう。
 事件に乗じて、ネット教育を進めるのはいいとしても、ネチケットから著作権まで、望ましいことを一気に詰め込むような愚はおかすまい。いま何を措いても重要なのは、人間関係の経験に乏しい子どもたちに、ネット・コミュニケーションの危険性を伝達すること。その一点のみだ。「ネット上の誹謗中傷は、現実のそれより何百倍も破壊力がある」という事実だけを、懸命に説得することだ。重要なことは「情報の伝達」ではなく、伝えようとする姿勢のほうである。その姿勢の真摯さに反映されることなくして、この事件にどんな教訓がありうるだろうか。

斎藤環著『「負けた」教の信者たち〜ニート・ひきこもり社会論〜』中公新書クラレ 2005年 pp.120-126

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