さらに虐待に関して言えば、(今回は見送られたが)警察官の「強制立ち入り調査権」を認めて欲しいという現場の声も切り捨てるわけにはいかない。虐待の可能性がきわめて高い家庭を訪問したさいに、ドアの向こう側にいますぐにでも救われるべき子どもの存在を確信しながらも、チェーンを壊して強制的に立ち入りできない現場職員の無念さは、想像するにあまりある。とりわけ、それができていれば死なずに済んだ事例が少なくないことを思えば、これはいかにも切実な問題だ。しかし一方で、子どもを救うためとはいえ、人権侵害にもひとしい強制立ち入りを安易に認められないのは当然とする意見も無視はできない。「子どものいのちを救うためなら、人権などなにほどのものでもない」という意見は、われわれが陥りやすい「俗情との結託」(大西巨人)にほかならないからだ。

斎藤環著『「負けた」教の信者たち〜ニート・ひきこもり社会論〜』中公新書クラレ 2005年 p.146