ラカン派哲学者のスラヴォイ・ジジェクは、しばしばシニシズムについて語る。ある種のシステムや規範のもとでは、人々はそれが嘘であることを知っているにもかかわらず、あるいは知っているからこそ、それに進んで従うのだと彼は言う。
 本書でも私は、シニシズムを規範的に広めたテレビというメディアが、このところシニカルさを喪失しつつある危険を指摘した。対象や行動の価値を信じすぎないこと、ほどほどの距離を維持することは、ときには動機と倫理性を維持する上で欠かせない姿勢でもある。いわゆる「シラけ世代」は、まさにシニカルさの初期段階というべき世代でもあった。しかしこの世代から膨大な数のオタクが生まれたように、シニカルであることは必ずしも行動を抑制しない。むしろ旧世代の価値観に縛られない、巨大な趣味の共同体がもたらされたのだ。
 シニカルさはその後も形を変えて維持された。しかし振り返ってみると、九〇年代はこうしたシニカルさの作法がゆっくりと減衰していった時期だったのかもしれない。われわれはもはや、対象との間にシニカルな距離を維持できなくなりつつある。対象にシリアスにかかわるか、徹底した無関心か。コミットメントとデタッチメントの二者択一しかなきがごとしである。たとえばわれわれが、まさに目の当たりにしつつある戦争。もはや人々は、戦争に対してシニカルに構えることができなくなっている。可能な選択肢は「ブッシュとフセインの、どちらがよりましな『悪』であるか」しか残されていない。
 こうしたことが、若い世代にあっては「自己イメージ」について起こりつつあるのではないか。すなわち「本当の自分」にひたすら固執し続けるか、まったく執着しないか。後者についてはひとまず措こう。自己イメージとのシニカルな距離を維持できなくなると、人は既成の自己像に縛られる。その結果、自己が成長し変化しうる可能性に対して、強い不信と恐怖が芽生えてくる。かくしてもたらされる、「ダメな自分はダメなままである」という信念は、行動や他者との出会いへの意欲を徹底して抑圧するだろう。そうした抑圧が緩慢な衰弱死や集団自殺を呼び込んだとしても、もはや私は驚かない。

斎藤環著『「負けた」教の信者たち〜ニート・ひきこもり社会論〜』中公新書クラレ 2005年 pp.221-222