二〇〇四年六月一日午後〇時半ごろ、長崎県佐世保市立大久保小学校の「学習ルーム」で、同校六年生の女児が、同じクラスの十一歳の女児に殺害された。加害者(A子とする)は返り血を浴びた状態で教室へ戻り、学習ルームで首をカッターナイフで切られた被害者(B子とする)の遺体が発見された。A子とB子はもともと非常に親しく、交換日記をしたり、お互いのホームページ(HP)のIDやパスワードを交換しあうほどの仲だった。殺害の動機としては、たまたまふざけあっている時に、B子がA子のことを「重たい」と行ったことに端を発し、お互いのHP上に相手を非難する書き込みをして、そのことをめぐって口論になるなどするうち、A子の側に殺意が芽生えていったようだ。

 (中略)

 とりわけB子が言ったとされる決定的な言葉「重たい」の意味は、その事実性のいかんにかかわらず注目されるべきだ。「見られる身体」を意識しはじめる思春期女子にとって、外見の指摘は時に致命的である。私も職業柄、この年齢の女子に対して、たとえ求められても外見上の事柄にふれることは一切しない。「ほめ言葉」にも傷つくほど、予測不能の反応や影響を引き起こすことを、経験的に知っているからだ。

 (中略)

 ネットカルチャーに関して言えば、この事件で特異だったのは、通常問題となる匿名性のほうではなく、「現実の絵関係」と「バーチャルな関係」が重ねられるという状況のほうであったように思われる。
 おそらくこの領域に関する研究は、韓国のほうがはるかに先を行っている。先日、韓国でオンラインゲーム中毒の治療と予防にたずさわっている精神科医と話す機会があった。

 (中略)

 この精神科医は、サイバー空間への没入が人間を退行させる危険性について危惧していた。私自身も、サイバー空間が一種の鏡像空間であり、他者性の介在が弱いがゆえに攻撃性が先鋭化されやすい傾向を指摘したことがある。掲示板やメーリングリストでの「フレーミング」などをみれば、この点は容易に理解されるだろう。しかし通常は匿名性に守られて、攻撃性が実際に行動化されることは少ない。むしろ行動化されにくいことを担保として、攻撃性がネタ的にエスカレートすることすらある。しかし、日常的に顔を合わせる仲間と「フレーミング」が起こったらどうなるか。これはいまだに未知の領域だが、これから確実に問題となってくる。ネット利用者の増加と低年齢化が、それを即すだろう。
 事件に乗じて、ネット教育を進めるのはいいとしても、ネチケットから著作権まで、望ましいことを一気に詰め込むような愚はおかすまい。いま何を措いても重要なのは、人間関係の経験に乏しい子どもたちに、ネット・コミュニケーションの危険性を伝達すること。その一点のみだ。「ネット上の誹謗中傷は、現実のそれより何百倍も破壊力がある」という事実だけを、懸命に説得することだ。重要なことは「情報の伝達」ではなく、伝えようとする姿勢のほうである。その姿勢の真摯さに反映されることなくして、この事件にどんな教訓がありうるだろうか。

斎藤環著『「負けた」教の信者たち〜ニート・ひきこもり社会論〜』中公新書クラレ 2005年 pp.120-126