DOG ON THE BEACH

A season passes. A castle can be seen. Where is a soul without a wound ?

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叔母のこと

叔母が死んだ。

 高校を卒業して大阪に出て、それから東京へ流れた。仕事を幾つか変えながら、最後には飲み屋の女将をしながらそのまま東京で長年暮らした。中年も遅くなった頃に結婚して幸せに暮らしていたが、数年後に夫と死別した。葬儀を独りで取り仕切ったが、亡くなった夫は再婚であった為に成人した子供がおり、結果相続で揉めた。本当は思い出の残る家でそのまま暮らしていたかったが、売却して資産を分配しなければならず、年金と相続した金を持って、横浜郊外のマンションで未亡人として暮らした。その後数年をかけて相続の問題に片が付き、先方の墓を整理したらようやく肩の荷がおりて、落ち着いた余生を送ることになった。暫くの後、年老いていろいろと不自由するようになって、そろそろ臨終の土地を考えなければならないと思い始めた頃に、体中に炎症が起きるようになった。病院で色々調べた結果、膠原病だった。通院しながら暴れる免疫を抑える薬を飲み、なんとか暮らし続けた。しかしその後体内に小さな癌が見つかった。そして間もなく、長年飼い続けた老犬が死んだのをきっかけに、故郷へ戻る決意をした。介護付きの施設に暮らしながら、穏やかに日々を過ごす。近くに戻ってきた為に元々仲の良い兄弟との往来も増え、通院のついでに色々な場所へ行ったりもした。そんな生活が続いた半年後、身体の痛みが増え強くなったので、大学病院の緩和病棟へ移った。そしてその数日後に容態が急変し、叔母は深夜に息を引き取った。

 叔母の最期を看取り、葬儀やその他一切を担ったのは叔父であるが、その彼が言うには叔母は自分の死期について話した事があるそうだ。自分は今まで好きなように生きて、色々やった。しなければならない事も、出来る限りやった。それだけやって来られたのだから、もう思い残すことはない。そう話したそうだ。本当だろうか? と思う。本当だったら良いな、とも思う。亡くなる4日前に病室を見舞った時、薬で痛みを抑えているからなのかとても元気で、死を間近に控えている人間には見えなかった。1時間ほどの間ずっと喋り続け、楽しそうであったり相変わらず口が悪かったりしたて、いつも通りの叔母であった。そのいつも通りであった人が急に居なくなる。啞然とするしかないが、今後もこういう別れを繰り返しつつ、終わりを見つめるような気持ちで生き続ける事を学んで行くのだろうな、と思った。

 外国の貴賓としてもっとも盛大な歓迎を受けたのは、やはりグラント将軍夫妻である。南北戦争で北軍の総司令官をつとめ、ついで大統領の職にあった将軍は、大統領辞任後の明治一二年六月、世界周遊の途次まず長崎に来航し、七月の初めから二ヶ月間東京に滞在した。

 (中略)

 将軍は天皇とたびたび会見している。まず到着の翌日の七月四日、早速表敬訪問し、七月七日には朝食を共にした後、軍隊を閲兵。八月に入ってからも、上野の歓迎式でふたたび顔を合わせ、同じく八月、浜離宮で長時間、比較的打ち解けた話をした。将軍は、民主主義の利点を論じ、ただしこの最良の政治形態も、採用には慎重を期し、あまりに性急に取り入れるべきではないと語った。将軍はまた日中関係にも触れ、以前から両国が領有権を主張している琉球諸島を日本画併合するについて、中国側の感情を考慮して適切な配慮をすべきことを希望した。日本を離れる前にも、将軍はもう一度天皇と会って別れの挨拶をしている。

エドワード・サイデンステッカー著『東京 下町山の手』ちくま学芸文庫 1992年 pp.154-156

 小林清親は弘化四年(一八四七年)本所に生まれた。現在の両国駅の近く、北斎の生地からそう遠くない所である。父は幕府蔵方の組頭をしていた。大勢の兄弟の末っ子だったにもかかわらず家督を継ぎ、慶喜に従って静岡に下る。蟄居中の将軍自身はけっして貧窮の生活ではなかったけれども、家来の中には生活に窮した者も多く、清親も寄席に出るなどして食い繋いだらしい。しかしついに東京に帰ることに決め、その帰京の途中、横浜でチャールズ・ワーグマンの指導を受けて洋画の技法を学んだ。ワーグマンは、もともとイギリスの海軍士官だったが、『絵入りロンドン新聞』の特派員として来日し、清親のほかにも高橋由一などに洋画を教えて、日本洋画の育成者となった人物である。貪欲にあらゆるものを吸収しようとした清親は、同時に下岡蓮杖に写真術を学び、さらに日本画まで習ったという。下岡蓮杖は幕末・明治の代表的な写真家で、日本の写真技術の先駆者となった人である。
 清親が版画家として仕事をしたのは、主として明治九年から一四年まで、僅かに五年間だった。その後も時折は仕事をしたけれども、集中して制作したのはこの五年間で、その間に東京の風物を百点描いた。この多産な時期の最後の作品となったのは明治一四年の神田の大火で、彼自身の家もこの火事で焼けてしまった。ちなみにこれは、明治の東京では最大の火災だった。

エドワード・サイデンステッカー著『東京 下町山の手』ちくま学芸文庫 1992年 pp.78-79

 いずれにしても江戸に残った町人たちは、はたして天皇が東京に住まうことになるのかどうかわからなかった。経済活動が麻痺してしまっている以上、娯楽もまた、当然のことながら事実上活動を停止していた。慶応四年の初め、劇場は閉鎖され、吉原へ通う人もほとんどなかった。官軍は江戸を目ざして東上の途次にある。維新とはいいながら、これはやはり革命であり、この革命軍が旧体制の首都にたいしてどんな処置を取ろうとするのか、まだ誰にも知る由もない。江戸は、この新しい世界を誕生させるについてはなんの力も貸してはいなかったし、進軍してくる官軍のほうでもまた、江戸がこの西南諸藩軍の趣味や作法について、侮蔑の念しか抱いていないことはよく承知していた。江戸の町には、陰鬱な不安が立ちこめていた。
 江戸は待った。官軍は近づいていた。この時、官軍の兵士たちの歌った歌は、後にギルバート=サリヴァンのサヴォイ
・オペラの名作『ミカド』に、ミカドの軍隊の歌として借用されることになる。原曲は明治陸軍の創設者、大村益次郎の作曲と伝えられる。進軍は、まず静岡、ついで江戸で会談の行われている間、箱根の手前で一時止まった。会談の結果、江戸城を戦うことなく明け渡すことが決まった。春も終わろうとする頃、慶喜は江戸を離れ、その数日後、江戸城と江戸の町とが、流血を見ることもなく明け渡された。官軍はすでに、東海道では品川宿、中仙道では板橋の宿まで達していた。

エドワード・サイデンステッカー著『東京 下町山の手』ちくま学芸文庫 1992年 p.48

 日本橋をはじめとして、一般に下町は保守的である。もちろん、町人を最下層に置く幕府の厳しい身分制度にたいして、不満はあった。この不満をぶつける手段として、下町の文芸や芝居には諷刺的性格が強く、山の手の武士階級を揶揄して溜飲をさげる気風もあったけれども、幕府体制の脅威となるほど強力なものではない。江戸っ子は将軍様のお膝下にいることを誇りとし、そして代々の将軍のほうでもまた、催事の折など、町人にたいして鷹揚に配慮を見せるだけの知恵はあった。やがて、実際に幕府の脅威となる勢力が現れることになるが、これは遙か西南の地方から迫った脅威であって、江戸っ子は、この田舎侍たちが新しい権力者として乗り込んできた時、旧幕府時代の武士にたいするよりもはるかに強い憤懣の念を抱いた。
 江戸っ子は独りよがりだと批判することはできるかもしれない。いわばプロの江戸っ子の末裔は今日でもいるけれども、この手の連中の自尊心はむやみに強く、ほとんど不作法とさえ呼べるだろう。世界には下町と下町以外という区別しかなく、そしてもちろん、下町以外はものの数にも入らない。谷崎潤一郎は生粋の江戸っ子で、明治十九年、日本橋の商家の生まれだけれども、仲間の江戸っ子を好まなかった。谷崎に言わせれば、江戸っ子は弱虫で、始終不平ばかりこぼし、概して実行力がない。しかし江戸時代の下町は、きわめて洗練された高度の趣味を具えていた。その後の時代の推移を見れば、この高度の洗練を維持してゆくには排他性が必要だったことも頷ける。とすれば、この程度の欠点はむしろ安い代償と言うべきかもしれない。

エドワード・サイデンステッカー著『東京 下町山の手』ちくま学芸文庫 1992年 pp.24-26

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