神社や寺院の中には事実上、公園とさして変わらぬ役割を果たしている所も少なくなかったが、そうした中に、明治に入って新しく加わった大事な神社がひとつある。九段坂は、かつては現在より高い丘になっていたが、麓にひろがる湿地を埋め立てるために上半分を切り崩し、頂上には現在のようにたいらになった。幕末の一時期、ここに兵舎が設けられていたこともあったが、明治二年、その跡地に招魂社が建てられたのである。同種の神社は全国各地に作られる。その目的は「嘉永以来」、職務中、国家のために死亡した人々の霊を祀ることとされた。しかしこの表現は、やや誤解を招く惧れがあるかもしれない。嘉永といえば当然、ペリーの黒船の来航を連想する。そこで、この黒船の来航に抵抗し、死者が出たかのような印象を与えかねない。けれども実際には、この時死傷者などは出なかった。本当の狙いは、実は戊辰戦争で命を落とした人々を祀るためだったのである。その後、日清・日露をはじめ新たな戦闘が起こり、新たに戦死者が出るにつれて、祀られる人々の範囲もひろがってゆく。中には意外な人々も含まれていて、例えば日本海海域で死んだ三人のイギリス人などその一例だし、明治三十三年の義和団の乱(北清事件)の時、日本人の戦歿者があったことも、今ではもう憶えている人はそう多くはあるまい。興味があるのは、東京出身者の数はいつでも全国平均を下回っていることだ。江戸っ子は、お国のために死ぬことにはそれほど熱心ではなかったらしい。
 明治十二年、東京招魂社は靖国神社となる。江戸以来の伝統で、この神社もまた、尊崇の場であると同時に楽しみの場でもあって、境内に競馬場が設けられた。不忍池に競馬場の出来るより前のことである。明治二十九年の秋の大祭には、実に二六八頭の馬が出走したという。だがこれをピークとして、以後はしだいに下火となり、最後の競技の行われたのは明治三十一年。その三年後には競馬場そのものが廃止になった。しかし境内では相変わらず、相撲の興行からお能の上演まで、種々さまざまの催しが続けられた。明治三十四年に建った能舞台は現在も残っている。現存しているといえば、境内にはまた、明治四年に出来た高灯籠も残っている。かつては築地の沖を行く漁船が九段坂から望めたが、こうした船の目印として建てられた燈台である。
 日露戦争からその直後にかけて、靖国神社の参拝者は一千万人に達した。その後は数は落ちたとはいえ、毎年なお数百万人が参詣を続ける。いずれにしてもその境内は、例えば浅草公園などより、西洋でいう意味での公園にむしろ近かった。

エドワード・サイデンステッカー著『東京 下町山の手』ちくま学芸文庫 1992年 pp.178-179