DOG ON THE BEACH

A season passes. A castle can be seen. Where is a soul without a wound ?

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 それにしても、なぜ刑務所でこのような不祥事が頻発したのだろうか。これに関連してかつて興味深い心理実験がなされたことがある。
 それは、一九七五年に、スタンフォード大学で行われた。『シャイネス』のベストセラーで知られ、アメリカ心理学会の会長でもある心理学教授のフィリップ・G・ジンバルドーは、健康なアルバイト学生二〇人を募集し、コイントスで囚人役と看守役に分けた。彼らは実験のルールを説明され、合意のもとで「刑務所ごっこ」の実験に参加したのである。演出はなかなか凝ったもので、囚人役の学生は、実際に警官によって自宅で「逮捕」され、裸で身体検査を受けた後に囚人服を着せられて写真を撮影され、地下実験室に監禁された。看守役は、制服と警棒、警笛、手錠を与えられ、匿名性を保つべくサングラスを装用し、交代で囚人の監視をさせられた。囚人は常に番号で呼ばれ、睡眠、食事、トイレなど、あらゆる面で厳重に管理される。違反者にはペナルティが加えられ、暴力は禁じられていたが言葉による侮辱などは禁止されていない。その結果、何が起こったか。
 わずか二日後に囚人役の学生は、ひどく受動的で卑屈な態度に変わり、看守の指示に容易に服従するようになっていた。逆に看守役は、残忍で権威主義的な態度へと変わり、深夜に囚人役をたたき起こして無意味に点呼をとる、といった虐待まがいの行為を繰り返すようになったのである。精神病様の反応を起こして、実験から離脱する学生もいた。結局、二週間を予定していたこの実験は、わずか六日目にジンバルドー自信の指示で中止となり、以後この種の実験は、心理学実験倫理綱領によって禁じられることになった。ちなみに、二〇〇一年にドイツで大ヒットした映画 “Das Experiment”(『es』のタイトルで、日本でも公開された)は、この実験をモデルにしている。

斎藤環著『「負けた」教の信者たち〜ニート・ひきこもり社会論〜』中公新書クラレ 2005年 pp.160-161

シルビアのいる街で

シルビアのいる街で

シルビアのいる街で:KINENOTE

 自分の観たい映画リストに放り込まれていたのだが、粗筋を読んでも何故この映画をチェックしたのかがさっぱり思い出されず、かといってそのままにしておくのも何なので観てみた。

 ホテルの一室で1人の青年がベッドで考えごとをしている。しばらくして地図を手に街に出かけた青年はカフェで1人の女性客に声をかけるが無視されてしまう。翌日、青年が演劇学校の前のカフェで客たちを眺めながらノートにデッサンをしていると、ガラス越しに1人の美しい女性を見つける。彼女がカフェを後にすると彼は後を追う。街中を延々と歩き続け、市電の中でようやく彼女に声をかけることができた彼は「6年前に会ったシルビアだよね?」と尋ねるが、彼女は人違いだと答え、更に彼が追って来たことを責める。翌朝、青年はカフェに寄ってから市電の駅に向かい、そこで佇む。彼の目に多くの人々の姿が映り、彼のノートが風にめくられる中、目の前を何本もの市電が通り過ぎて行く。
シルビアのいる街で – Wikipedia

 ウィキペディアのストーリー項目にはこう書いてあるが、全くこのままで、これ以上の話はほぼ出て来ない。主人公の青年の表情や歩く姿、そして一人の女性の表情や歩く姿以外では、カフェに集う人々や、街中の通りを行き交う人々、市電を利用する人々を淡々と定点観測のように映しているだけである。しかし、それが良い。カフェで人々は柔らかい陽光の下で風に吹かれながら、連れと喋っていたり、物思いに耽っていたり、思い思いに過ごしている。映像としても音響としても、人々は互いに見切れ、重なり合って映し出される。状況の中に埋没してしまいそうだ。街中の通りでは、目的地へと急いでいたり、座り込んで途方に暮れていたり、時間と場所を変えて同じ人が歩いていたり、せっせと働いていたり、様々な人々が縦横無尽に行き来する。そしてこの二つの場所を一人の物売りが渡り歩き、単調な流の中でアクセントとなっている。このような光景の連続が、時折ほんの少し居心地悪く感じる場面があっても、心地良いのだ。
 このように異色な作品だが、テイストが珈琲時光に似ている気がする。どちらともストーリーはあくまで時間を進め場所を移動する為の口実でしかなく、映像と音響が主体である点がそう感じるようだ。しかもそれは、その辺りにいくらでも存在する「日常」的な光景。ありふれた光景の中に美を見出し、それをクローズアップする為にあらゆる事を従わせて出来上がった映画という印象を持った。

武田梨奈

 何のテレビ番組だったのか憶えていないが、映画の紹介コーナーでこの予告編(劇場公開前だったのだろう)が流れて、そのハイキックの美しさに呆気にとられた印象がずっと頭の中に残っていた。つまりは、その後映画を観ようともせずに、すぐさま日常の中で忘れてしまっていたのだ。2009年の話である。
 それから、何かのきっかけで何度か思い出した事もあったように思うが、やはりその時も観ようとはしなかった。しかし今年になって、レンタルDVD屋のアクション映画のコーナーで偶然にこの映画のDVDを見つけてしまい、そろそろ観た方が良いような気がしたので、観てみる事にした。果たして、映画全体が稚拙で気に入らなかったのだけれど、主演の武田梨奈の事が妙に気になってしまい、どうにも捨て置けない感じになったので、可能な限り彼女の出演作を観て確認してみようと思い立ったのである。以下はそのメモのようなものである。

ハイキック・ガール!

ハイキック・ガール!:KINENOTE

 2009年5月公開。神社でのハイキックがピークの映画だった。ストーリーは稚拙で、打撃でちゃんと当ててるところを見せようとしたのか、スローモーションを多用するのでスピード感に欠ける上に見づらい。脇の出演者にも格闘家を何人も登用しているそうだが、非常に勿体ない事になっている。監督・脚本・プロデューサーの西冬彦がすべて悪いんじゃないかと思えて来る。

KG カラテガール

KG カラテガール:KINENOTE

 2011年2月公開。今回、西冬彦はアクション監督・脚本・プロデューサーを務めており、監督は木村好克である。前作よりもアクションがぐっと良くなった。しかし、やはり話が面白くない。
 こういう格闘系アクション映画というのは話が面白くなくても成立するものだったかなと、昔に観たカンフー映画の事を思い出そうとしてみたが記憶がかなりあやふやである。しかし先日続けて観てみた「ベスト・キッド」シリーズは、面白かったのは1984年公開の最初のヤツと、2010年にジェイデン・スミスとジャッキー・チェンが主演した作品だけである。他のはどうにも惰性で作った印象を受ける。なので格闘系アクション映画でも脚本はやはり重要だと思う。

女忍 KUNOICHI

女忍 KUNOICHI:KINENOTE

 2011年3月公開。この映画には西冬彦はまったく関係しておらず、監督・脚本・プロデューサーは千葉誠治。これもアクションはそこそこだったが、話が面白くない。65分の映画だし、おそらく物語を見せたいのではなくアクションを見せたいのだろうと思うが、エピソードが残酷なわりには面白みがないし、短い映画で良かったなと思ってしまうほどだった。

少女は異世界で戦った DANGER DOLLS

少女は異世界で戦った DANGER DOLLS:KINENOTE

 2014年9月公開。監督は金子修介アクションは良かったし、話も少し面白い。物語自体もそうなっているのだが、これはアイドル映画として楽しむのが良さそう。

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リュウグウノツカイ:KINENOTE

 2014年8月公開。監督・脚本はウエダアツシ。アメリカで起きた集団妊娠事件を題材にしている話で、アクションはなし。話が面白いことはなかったが、この女優はアクションなしの立ち居振る舞いも結構良いのだな、という印象を持った。

ワカコ酒

ワカコ酒:Wikipedia

 2015年1月から3月に放映。原作はグルメ系漫画。意外なドラマに出演したものである。予告編動画を観て、結構絵面が良かったので観てみた。原作漫画の小気味よさが念頭に在ったからか、全体的に冗長な感じがするし、最後の方は無理矢理話を盛り上げている感じがしたので、あまり面白いとも思えなかった。各話3分という短い尺でやったアニメ版のように、5分、せめて10分の尺でやったら良かったのになあと思っていたら、なんとシーズン2が年明けから放映されるようだし、今月から韓国でリメイク版が放映されるとか。意外にも人気があったようである。

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祖谷物語 おくのひと:KINENOTE

 2014年2月公開。これを最後に持ってきたのは一番気に入っているからである。監督・脚本は蔦哲一朗。3年をかけて、35mmフィルムで撮影したそうである。徳島県三好市祖谷が舞台であり、冒頭で映し出される山深き風景にぐっと引き寄せられ、一転しての冬山の風景の中で蠢く田中泯演じるマタギの姿にがっちり掴まれた。武田梨奈はこういう、俗世から離れて暮らしている純朴な女性の役がよく似合っているように思う。例えば、橋本愛がとても良かったリトル・フォレストだが、もしかしたら武田梨奈が演じても良かったかも知れない、と思ったりする。
 作品に恵まれていなくて不憫だと思っていたが、この作品に主演する事が出来て本当に良かったなあと他人事ながら安心した。

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 Wikipedia の出演作リストを見ると判るように2014年から急に出演作が増えている。レンタルが出来て、主演しているものを観てきたが、デッド寿司は予告編をみて、どう考えても好きじゃなさそうなので止めておいた。そもそもは格闘する少女の姿が観たかったのだったと思うが、その点に関しては今となってはどうでも良くなってきた。今年出演した映画の粗筋なんかを読んでみると、いろいろな役を演じているようである。それらが DVD 化されてレンタルされるようになるのをのんびり待ちながら、緩く追いかけていこうかなと考えている。

是枝裕和という作家

 先日、映画館で「海街diary」のロードショーを観てからというもの、少々気になる事があったので、未見の作品をまとめて観ることにした。「ワンダフルライフ」や「誰も知らない」、それと「歩いても歩いても」と「空気人形」と「そして父になる」は既に観ていた。「幻の光」から年代順に観ていったのだが、「DISTANCE」だけが何処にもレンタルしていなくて観なかった。試しに見てみるだけの事に「買う」という事はしたくなかったというケチな理由なんだけど。

 気になる事というのは、是枝作品では、同じ役者が複数作品に出演していたり、しかも同じような役柄であったり、登場する家族の関係性が似ていたり、テーマとなっているものが近いように思えたのである。そう思い付いたら、それらの事について確認しなくては気が済まない心持ちになってきたので、それを実行した訳である。

幻の光

幻の光:KINENOTE

ワンダフルライフ

ワンダフルライフ:KINENOTE

DISTANCE

DISTANCE:KINENOTE

誰も知らない

誰も知らない:KINENOTE

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花よりもなほ:KINENOTE

歩いても歩いても

歩いても歩いても:KINENOTE

大丈夫であるように

大丈夫であるように:KINENOTE

空気人形

空気人形:KINENOTE

奇跡

奇跡:KINENOTE

ゴーイング マイ ホーム

ゴーイングマイホーム:Wikipedia

そして父になる

そして父になる:KINENOTE

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海街diary:KINENOTE

  • 「歩いても歩いても」と「ゴーイングマイホーム」は、共に阿部寛が同じ名前で主人公を演じており、その姉役を演じているのは共にYOUである。自分の妻と子供、姉夫婦、両親という家族を取り巻く環境が似ていおり、抜き差しならない家族との距離を測り兼ねている様子が全編に映し出されている。
  • YOUは、先に「誰も知らない」で母親役を演じている。いずれも無責任さが強調されているように思う。
  • 「ゴーイングマイホーム」と「そして父になる」の主人公は、父親に対して少なからぬ確執を抱いており、父親役を演じているのは共に夏八木勲である。主人公の名前も同じ「良多」である。
  • 「幻の光」の主人公が再婚する先の、柄本明演じる舅が中空を見つめるように惚けている場面が繰り返し出てくるが、「海街diary」では、リリー・フランキー演じる喫茶店の老いたマスターが、同じように惚けて中空を見つめている場面が出てくる。しかも原作ではそのような場面は出て来ない。つまり脚本の段階でわざわざ作っているのだ。

 今思い出せるのはこのくらいか。観たのが随分前であるが故に、内容を余り思い出せないものも幾つかある。もしかしたらもっと在るかも知れない。
 例えば画家が同じモチーフを背景を替えたり、素材を替えたりしながら何度も描き直すのは、自分で納得出来ないまま完成させてしまったからであろうと僕は考える。もしくは、完成した時には満足していたが、時間の経過に連れ至らなかった部分に気付いて来て、その事がどうにも我慢出来なくなった時に別な機会を設けて描き直しているのだろうと考える。
 この作家の、配役やモチーフの繰り返しもそれと同じような事ではないだろうか。それはつまり、作家にとってとても大切な事柄なのだろうと思う。鑑賞する側にとっては関係のない事だが、そういう見方も興味深いように思える。

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 「ゴーイング・マイ・ホーム」が殊の外気に入っている。アマゾンでのレビューを読んでみると「映画と同じこの作家特有の演出が失敗していて良くない」というような事が書いてあったが、そんな事はなかった。というか、連続テレビドラマなのに、これまで観てきた同作家の他の映画と同じ感覚で観る事が出来るのが良かった。もっとスポンサーの意向や制約なんかが影響して、解りやすいエピソードが盛り込まれたり、妙に盛り上げるような演出がなされたりしているのだろうと観る前には思っていたのだけれど、そういう引っかかりが全くなかった。その事にとても感心するし、内容としても、映画でやってきた事の集大成であるかのようなものになっていたのも良かった。
 それと、この作家は連続テレビドラマの方が合うのではないかと思う。連続テレビドラマくらいの長さが在る方が、登場人物の心情を丁寧に描く事が出来て、観る者がより物語に近づいて行ける気がする。先日観た「海街diary」でも物語の展開が若干早すぎるように感じ、何となく話の流れや登場人物に対して距離を感じてしまった。それでは勿体ないなあと思うのである。

春燈

 先日観たので少し書き留めておく。

 前回観た「藏」とこの「春燈」そして「櫂」は、宮尾登美子原作の NHK ドラマ三部作のような扱いになっているが、最初の「藏」の原作本が発刊されたのは1993年で、「春燈」が1988年、「櫂」が1972年と、何故かしらドラマは原作の執筆時期を遡るように制作されている。しかしまあ、その事自体にはさして意味などないだろうから流すとして、女衒の家に生まれたこの物語の主人公は、成長するにつれて父親の職業に疑問を持つようになり、その職業故に進学に支障を来し、友人を失う。父親の呪縛から逃れようと決心し遠く離れた分校に教師として赴任するも、そこでも権力者である父親の影響下から出る事が出来ていない事実に絶望した主人公は、夫を説得し満州へと渡る。というのがこの物語の粗筋であるが、これは原作者の半生と重なる。
 最終話において、確執の行き詰まった父娘は口論を極め、「何故そんなに俺を嫌う?」という父の悲痛な叫びは宙へと消える。お互いに決して譲る事の出来ない想いを持ち続けた、長きに渡る父娘の愛憎の物語であった。

 「藏」の場合、そのタイトルはまず酒蔵を指すのだろうし、次に蔵の中の暗さと視力を失った主人公の世界の暗さを重ねたものであるだろう。では「春燈」にはどのような意味が込められているのか。かつて俳句雑誌に「春燈」というものが在ったようだけど、余り関係なさそうである。ドラマのオープニングで、遊郭の軒に下がる提灯が印象的に映し出されているが、これかも知れない。「春を販ぐ」場所である遊郭の「燈り」だ。遊郭の軒下でその燈りが風に揺れる様と、その家に縛られた主人公の人生を重ねる事は出来そうだ。

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