DOG ON THE BEACH

A season passes. A castle can be seen. Where is a soul without a wound ?

Month: September 2007

電車男 / 村上正典

 観たのは随分前だしこのエントリは映画のレビューでもないのだが、僕はこの映画はロードショーで観ていて、割と身につまされる話であったりする。しかしながら、その当時僕の周囲では「主人公の男が気持ち悪い。」とか「主人公の男の子は私の好みではないですねえ。」とかそんな感想ばかりが耳に入った。そりゃまあ、そうなんだろうけど。
 人生のとある場面で(若しくは様々な場面で)排除され、挫折し、その事件から己を守る為に諦める事を覚えた人間。そういう経験を経たが故に、自分が誰かを求める資格が在るとか無いとか、そういう事に躓いている人間が少なからず存在する事を彼らは知らないのだろうか。自分自身が経験せずとも、家族や友人の中の一人ががそういう世界観の元に生きているという事はないのだろうか。無いんだったら仕方ない気はするけど。そんな事を考えた事を思い出した。

土へと還る欲望

 人が死に、腐乱した肉体がバクテリアその他に拠って分解されて土に還るとはよく聞く言い回しだが、実際に人間にはそういう欲求が在るように思えてならない。弱り切った人間が草木に慰められるのは何故か。年老いた人間が田舎に引っ込んだり、農業を営む事を夢見るのは何故か。
 そう言えば子供の頃にやたらと土を掘り返したり、その穴に腕を突っ込んだり頭を突っ込んだり、果ては大きな穴を掘り、そこに身を横たえてみるとどことなく安心したのを覚えている。

 理由など何一つ思いつかないが、何となくそうしてしまうというのは立派な欲望であると思う。似たような事で言えば、水に身を浮かべるとか、その流れに身を任せるとか。それか樹木や岩にへばり付いてみるとか。短絡的に書いてしまうと、自分より大きなものに自らを任せたくなるのだろうか。

女の一生

 先日のエントリで母の事を書いていて思い出したのが、リリー・フランキーの「東京タワー」の中の一節。産み育てた子供達が皆家を出、其処に独り残された二人の祖母の話だ。一部を少し引用すると。

 筑豊のばあちゃんは相変わらずひとりで、黄色くなったジャーの中の御飯を食べていた。(中略)誰も居なくなった家で、黄色くなった御飯を食べながら、心臓病の薬を飲み、映りの悪くなったテレビを観ている。ばあちゃんにとって、一日のどんな時が楽しいのだろう。人生の何が楽しみなのだろう。

 その後に続く本文にも同じような事が書いてあるのだが、そんな祖母の後ろ姿を想像しては、僕は自分勝手にやりきれない気分に陥ってしまう。父方の祖母は既に亡くなっているが、母方の祖母は、一昨年に伴侶を亡くし今は独りで暮らしている。母の末弟が近くに住んでいるのでちょくちょく様子を見に行ってはいるし、その叔父や母が一緒に暮らす事を薦めても頑としてその家に留まる考えを変えないと聞く。
 長い年月を生き続けた一人の人間が自ら選んでそうしている事だし、僕のようなまだまだものの解っていない人間がどうこう言える事ではないとは思うけれども、切なく、非常に無力感を伴う。祖父が亡くなった時、僕は仕事をどうしても抜ける状況ではなかったので、別れを告げる事が出来なかった。そして前年の末は、帰省はしたのだが、著しく体調を崩した為に祖母の元を訪れる事が出来なかった。つまり独りになってしまった祖母には一度も会っていない。

 そんな経験をすると、明確な答えなど見つかるはずもないと思ってはいても、つい「一体どういう状態での家族の在り方が一番正しいのか。」などという事を考えてしまう。事情は千差万別。それが家族であれ何であれ、人と人との関係は「思うようにはいかん。」のが常であり、もし健康的な繋がりを保てそうな気配がするのであれば、それはきっと守るべきものである。僕は今そんな風に考える。

 タイトルに大層な事を銘打ってしまったが、実際問題、僕に女の人生について語れる訳はない。ただ、親しい人間の寂しそうな姿を見るのは辛い。それは勝手な思いこみだし、根拠としてはそれだけしか無いのだけれど、とても大事な事のような気もしている。

秋の歩き方

 先日の休みに母から電話があり、梨を送るから届くのは日曜で良いかと打診があった。何も問題はないのでその旨を伝え、その後数日過ごした本日、箱入りの梨が届いた。どう考えても多すぎる量で。
 礼でも言おうと母へ電話をかけ改めて今回の贈り物の訳を尋ねてみれば、なんと先日迎えた僕の誕生祝いであるとか。・・・誕生祝いに?・・・梨を? 母曰く「なんば贈ろうかねーち思いよったとばってんやん、なーんも思いつかんけん梨にしたとたい。」との事であった。母の実家の近所は茶と梨と葡萄の産地で、そこで買ったのだと言う。新茶の季節ではないし、旬で言えば梨か葡萄で、僕は葡萄が好きではないので、そう考えると必然と梨に決定するのは道理である。スーパーなどで見てみれば梨はやたらと高いし、そんな時期に梨をたらふく食えるというのは贅沢に違いない。

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 ついでに我が家族の情報塔である母に各々の近況を尋ねる。実家に居る父や弟の事は普段から聞いているのでよいとして、今年になってようやく帰国した弟の事や東京に住む叔母の事など。叔母の事は少し前から気になっていたのだが、この秋にとうとう店を畳むという。今月中には一度顔を出そうと思う。
 その後どういう話の流れであったのか、母がこんな事を言い始めた。「いろんな事に興味ば持って、やりたいち思うた事は全部やらんといかんよ。」40を目前に控えた息子に言う言葉ではないように思うのだが、続いた母の言葉に合点がいった。「これはね、自分の経験から言うとたい。」母は早くに嫁いだ訳ではない。母も父も、その当時の社会的背景を考えれば晩婚である。それでもやり残した事がたくさん在るという。とすれば、結婚して家庭に入るという事はこの際関係無いのかも知れない。とにかく、彼女の人生に対する無念さのようなものを知らされた僕は、息子としてどう受け答えして良いか判らずに、ただ相づちを打ったのみであった。

 そう言えば、冷静に考えてみると、こんな言葉は本来ならば父親が息子に言う言葉ではないのだろうか。確かに母は気丈で、我が家では一番強い人ではあるが、他の家庭ではどうなのだろうか。それはともかく、彼女は僕に一生懸命何かを伝えようとしているのは痛いほどに解る。
 毎年年末に帰省する度に年老いて行く母を、僕は焦りを伴う気持ちで眺めている。そしてその都度、母に優しくする事を自分に強いるが、余り巧くいっていない。母が晩婚な上に僕の年齢を考えれば、当然彼女は高齢者である。つまり、彼女に残された時間はほんの少しだ。僕は母に対して、後どれほどの事をしてあげられるのだろうか。子供の頃、確か保育園か小学校の低学年辺りに、学校で習った技術を駆使して、弟達と一緒に母の誕生日に紙粘土で作った不細工なペンダントを贈った事がある。それでも母は喜んでくれた。あんな風に喜ぶ母の顔がもう一度見たいと思う。母との電話を終えた後、僕はその事についてずっと考えていた。

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 今年はラニーニョ現象と温暖化の影響で、秋らしい秋を感じぬまま、残暑からいきなり厳冬へ突入する可能性があるという。嫌な流れだ。僕は何処かへ、一瞬だけ香る秋を探しに行こうかと考えている。

眼球舐め

 これは十庵氏の要請に応えるエントリである。

 だからと言ってこの話題というのも何だけれど。今から7年ほど前に、僕は突然、しかも実施でいきなりこの行為を知る事になる。しかし全然嫌ではなく、不思議な事に何の違和感も感じなかった。真夜中にいつものようにセックスに及んだ際に「ちょっと目開けてて。」と言われ、何だろうと思いながら目を思いっきり見開いて待っていたら、彼女は僕に覆い被さり、何の説明も予告もなく舐めてきたのである。
 確かに気持ち良かった。その気持ちよさを例えるなら、蒸しタオルで目を覆う気持ちよさと、粘膜を介して行う性的な気持ちよさが混じったようなものだった。僕はどちらかと言えば物の先端に恐れを抱く方で、目薬さえまともに指せないのだが、この時はあまりそういう事を感じなかった。彼女の舌先が僕の眼球をなぞるのは、身体の他の部分で感じるのと同じように、行為を受ける者の喜びを感じる事が出来た。

 その時の事を彼女がどう思っていたのか解らないが、眼球を舐められたのはその時一度だけだった。僕からもその時しかした事はなかったと思う。ノリだとか流れだとかの曖昧な理由で、その行為に及ぶ機会がなかっただけかも知れないが。

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 相手の眼球を舐めるという行為について、僕は人の口からは殆ど聞いた事がない。一人だけ、或る女性と話している時にその話題が出た事があるが、他はない。それは僕が性的な事柄について他人と話す事が余りないからかも知れない。実際のところ、よく解らない。少なくとも一般的ではないような気はしているのだけれど。

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