というタイトルで、白州正子が「夕顔」の中に文章を書いていた。

 日本の神さまは三人一組になって生まれる事が多く、真中の神さまは、ただ存在するだけで何もしない。たとえばアマテラスとツキヨミとスサノオは「三貴子」と呼ばれるが、アマテラスは太陽(天界)、スサノオは自然の猛威(地下の世界)を象徴するのに対して、夜を司るツキヨミだけは何もせず、そこにいるだけで両者のバランスを保っている。次のホデリ(海幸彦)、ホスセリ、ホイリ(山幸彦)の三神も同様で、真中のホスセリだけは宙に浮いていて、どちらにも片寄らない。いわば空気のような存在なのである。

 そんな神話を紹介していたが、それが何処から来る話かというと、深層心理学者の河合隼雄が「中空構造」という臨床士の立場を著す表現として用いた言葉があるが、その分かりやすい例として上げているのである。

 若いときは、自分で相手の病を直そうと思って一生懸命になった。だが、この頃は、自分の力など知れたもので、わたしは何もしないでも、自然の空気とか風とか水とか、その他もろもろの要素が直してくれることが解った。ただし、自分がそこにいなくてはダメなんだ。だまって、待つということが大事なんですよ。

 当時の河合氏の見解に拠れば、日本の若い医師や海外の医師は、自分でやっきになってクライアントを治そうと試みる人が多いそうで、自分の考えが全てであろうはずもなく、一つの考えに過ぎないと言っている。

 昔、或る女性との別れの際に「そこに居てくれるだけで良かったのに。」と言われた気がする。(別れの際だったかどうかが、どうにも曖昧だが)そんな時に今更な事を言われても、僕としてはどうしようもない。それに、どうやら僕と関係した事を後悔しているらしき言動に腹を立てもしたのだが、今考えてみると、そういう事であったのかも知れないと思う。何も彼女が病に伏していたのだとは思わないが、彼女にとって、僕が何かの支えになっていたのかも知れない。しかし、結果として僕は立ち去ってしまった。その事を後悔はしていないが、悪い事したな、とは少し思う。
 但し、家族でもないし、第三者的な治癒者でもない僕が、そのままずっと彼女の傍に居続けられたとはとても思えない。そんな事を求められても、浮き世に塗れ、人並みの情を欲する僕は困るのである。もしかしたら、遠くから眺める事くらいは出来るのかも知れないが。