山笠の巡行は、初めのころは途中で昼食をとったりして、極めてゆったりとしたものであった。それが現在の追山に見らるような、互いに早さを競い合うようになったいきさつについては、「櫛田社鑑」に、一六八七年(貞享四年)の祇園山笠で、石堂流の四番山笠が、途中での昼食を抜きにして、三番山の土居町流を散々に追い上げるという事件があり、それ以後、途中の昼食がなくなった、という逸話が記されている。
 この事件は、その年の正月に起こった、土居町と竪町(石堂流)の若手の喧嘩がもとであったとされているが、『博多津要録』には、一七五六年(宝暦六年)の町奉行所からの通達に「以前より山笠の回るときに先山を追いかけることがたびたびあって、特にこの二十年ほどはそれがあたりまえになり、いつも争いが起こり、けが人も出ている」という内容のものがあって、早さを競うのが慣習化されてきたことを示している。
 奉行所では山笠の紛争を少なくするため、各流の年寄りを集めて注意を与えるほか、一七九五年(寛政七年)には、東町流の六番山が洲崎流の五番山に追い付いたとき、山を止めて先山の離れるのを待ったということで、銭三貫目をほうびとして与えたりもした。
 しかし、早さを競うことは相変わらず続き、のちには山飾りを簡単にして山の重量を軽くしようとする動きさえ現れ、これでは見物に来た他国の人にもすまないと、一八四〇年(天保十一年)には、各流で作り山の飾りには手を抜かない、という申し合わせがなされている。

朝日新聞福岡本部編『江戸の博多と町方衆〜はかた学5〜』葦書房 1995年 pp.134-135