ディズニーはアニメ初のトーキーで音を付け、マルチプレーン・カメラとテクニカラーの導入で映像に奥行きと色を与え、初の長篇映画の制作によってドラマを与えた。総合化へ向けた指向性でもって、急激に技術革新が推進されたのである。そしてそのような情報量の増大はセル画のフラットさを逆に際立たせ、一つのスタイルへとそれを昇華させた。セルアニメは総合化の推進と同時に、ひどく人工的で清潔な、それまでにない特有な映像世界を出現させていったのである。
 ここで重要なのは、なぜそのような衛生思想めいたスタイルをディズニーが採択していったのかということである。これと関連して注目すべきなのは、ディズニー映画を特徴づける、残酷さや性的な要素の徹底的な排除である。白雪姫やシンデレラなどの、残忍さに満ちたヨーロッパのオリジナルの童話と照らし合わせてみると、ディズニーがまるで異質なものにそれらをつくり換えていることがよくわかる。
 そこには、昔から指摘されてきたヨーロッパとアメリカの子供観の違いをみて取ることができる。ヨーロッパでは子供を大人未満の忌むべき存在に位置づけてきたのに対して、アメリカでは子供の純真無垢さを尊び、そこに聖性すら見る。その子供のイノセンスの祝福を基調とするディズニー趣味は『E.T.』などのスピルバーグ映画を筆頭に連綿と受け継がれており、アメリカの大衆文化の一翼を占める、「ディズニー分化」とも言うべき系統を成している。
 ディズニー趣味の潔癖さは、エログロに傾く大衆文化の一般的な傾向に照らして、大変特異なものである。それは、もともとピューリタンらプロテスタント信者が理想的な共同体を築きに入植して形成されたアメリカの白人人口の、宗教的風土と完全主義的なユートピア志向を土壌にしている。ディズニー自身が厳格なプロテスタント信者であり、残忍さや性的要素の排除は、彼の宗教的道徳観の反映でもある。そしてこの完全主義的なユートピア志向性が、セルアニメーションという高度に人工的な映像技法を発達させる土壌ともなったのである。

森川嘉一郎著『趣都の誕生 萌える都市アキハバラ』幻冬舎 2003年 pp.103-104