川本三郎が著した「私の東京町歩き」という本の中に、1988年11月に出版された雑誌「東京人」に書いた「高台にある眺めのいい町」というエッセイが収録されている。実際には高輪1丁目・2丁目の商店街というのがそれに当たるそうなのだが、町の人々は「二本榎商店街」と呼んでいるそうだ。エッセイの中にこういう記述がある。

 そして地形的に面白いのはこの商店街が高台にあることだ。ちょうど尾根づたいに通りが伸びしている感じである。ふつう港区の町は山の上はお屋敷町、山の下が庶民的な商店街とわかれることが多いのだが、二本榎商店街は珍しく山の上にある。だから小さな個人商店が並んでいるのに非常に明るく解放された感じがする。
川本三郎著『私の東京町歩き』ちくま文庫 1998年 p.48

 この一文を読んでとても行ってみたくなった。ちょうど10月の終わりに上京した際の飛行機の中でこのエッセイを読んでいて、ついでに立ち寄ってみる事にした。エッセイには続いてこういう記述がある。

 この町には新橋から都営浅草線に乗って行く。新橋から大門、三田ときて三つめの泉岳寺で降りる。そして細い坂道をのぼっていくと商店街に出る。新橋から約十五分である。そこんは都心とは思えないような “昔し町” が残っている。最近、この町を知って夏のあいだ銀座に出たあと何度か散歩に通った。この町の魅力は、小さな商店街と坂とそしてお寺だ。
川本三郎著『私の東京町歩き』ちくま文庫 1998年 p.49

 このルートで歩こう。そう決めた。

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 で、やって来ました泉岳寺。地下鉄の入口はまあ、こんなもん。

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左図: 駅前に藪蕎麦。11時くらいだったが、入って山菜蕎麦を食べた。旨いとも思わなかったが不味くもなかった。客は僕以外に誰も居なかったが、雰囲気は悪くなかった。

右図: 店を出て泉岳寺方面へ歩く。ご覧の通りに割と殺伐とした通り。

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 そして泉岳寺。境内に入って参拝もしたし、赤穂浪士の墓も見たのだが、今回の趣旨から外れるので割愛。強いて書くなら、上の写真で僕の前を歩いていた白人の青年が、僕よりも前に赤穂浪士の墓地のエリアに入って行ったのだけれど、僕が行き着いた時に彼の姿は無かった。擦れ違わなかったし、一回りしても他に出口は無かったと思う。彼は一体何処へ消えたのか。気になったが先を急ぎたいので考えない事にした。見物に来ていた客は、洋の東西を問わず外国人が多かったな。

 さて、ここでもう一度エッセイの一文を読み返す。

 そして細い坂道をのぼっていくと商店街に出る。

 この「細い道」とやらを探さなくてはいけない。行きつ戻りつ、ウロウロしてみてようやく下図の先にあるのではないかと見当を付けた。

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 右奥の門扉は高輪高校のもので、そこから生徒が何人か出てきたので気付いた。地図を見て貰えば判るが、この学校の敷地というのがもの凄く複雑な形をしていて、その事情を想像しているとちと楽しい。話は逸れたが、門扉へと向かう道の左側に空間の存在が見て取れるので、もしかしたら道が在るのではないかと思った訳だ。

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 果たして道は在った。人が擦れ違うのがやっとの細い道。書かれてあったのはこれに違いない。この道が泉岳寺と高輪高校のどちらの所有するものなのかは判らないが、よくぞこの抜け道を残したものだと感心した。所々の緩やかに折れ曲がった角に街灯が建ててあり、設備が相当古いのも相まって、夜にこの道を通ると良い雰囲気であるように思う。ちと恐い気もするが。

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左図: 泉岳寺と高校の境界線を抜けても相変わらず道は細かったが、今度は古びた人家やアパートが立ち並ぶ。住人以外は立ち入る事の無い感じがわくわくする。

右図: 更に歩き進んでいくと少し開けてくる。新しめのマンションなどが建ち並ぶ。

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左図: 更に進むと緩やかな上り坂になる。いよいよ商店街の通りに出るのかとわくわくしてくる。

右図: 出た。想像していたよりずっと道幅が広く、近代的な建物が並んでいる。商店街など何処にもないではないか。そう思いながら左に折れる。

(続く)