DOG ON THE BEACH

A season passes. A castle can be seen. Where is a soul without a wound ?

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 近・現代の福博と福博町人を知るのに「紙與呉服店」(現在の紙与産業の前身)の歴史は避けて通れない。福岡市の中心部、天神から電気ビルまで、山手に向かって伸びる大きな通りがある。道沿いには、デパート、西鉄福岡駅、ホテル、銀行などが林立する福博のメーンストリート「渡辺通り」である。
 この通りの呼称が福博の道路建設や九州大学誘致、博軌電車(現在の西日本鉄道の前身)の施設、博多絹綿紡績会社の設立などに尽力した渡邉本家三代目当主、渡邉與八郎氏にちなんだものである、といえば、その存在の大きさの一端はわかっていただけるだろう。

朝日新聞福岡本部編『博多町人と学者の森〜はかた学6〜』葦書房 1996年 p.40

 狙われた円爾は謝国明に助けを求める。謝国明は宋出身で、小呂島(福岡市西区)を貿易の基地にし、日本人女性を妻に持つ博多網首。義侠の人でもあった。円爾を櫛田神社近くにあった自宅にかくまったという。一連の騒動は、双方にとって貿易の利権がどれほど大きかったか、博多がいかに重要な位置にあったかを物語っている。
 謝国明は、禅への信仰心も厚く、多くの足跡を残している。
 JR博多駅近くにある承天寺は、謝国明の援助によって円爾が建立した。円爾の恩師である宋の無準師範の径山万寿寺が火災に遭った時は、木材千枚を贈った。その五年後に承天寺が焼失。謝国明はたった一日で、仏殿など一八の建物を再建させたと伝えられる。それほどまでに禅に帰依していた理由は何か。「故国を離れて暮らす網首たちにとって、禅宗は心のよりどころだったのでしょう」と大庭康時主査はみる。しかし、それだけではない。禅という共通の文化を持つことが、宋とのつながりを強固にし、間違いなく貿易事業のうえでも大きな利益を生んだ。若き日、東シナ海の波濤を越えて博多へやってきた謝国明。文化人であり、並外れた財力を持つ貿易商人だった。後に登場する博多の豪商たちの原形をみる思いがする。
 飢饉になったある年の大晦日のこと、謝国明は、飢えた人々を承天寺の境内に集めて「そばがき」をふるまった。これが年越しそばの起源になったとも言われる。
 弘安三(一二八〇)年、八十八歳で没したと伝えられる。墓は承天寺近くにある。墓のそばに植えられた楠が巨木になったことから、「大楠様」と呼ばれるようになった。毎年八月の命日には、遺徳をしのぶ「千灯明祭」が営まれている。

読売新聞西部本社編『博多商人〜鴻臚館から現代まで〜』2004年 pp.20-21

 燃料資源から見た人類史は、高カロリー化・高水素化の歴史でもある。木炭より石炭、石炭より石油、石油より天然ガスの順で重量あたり高カロリーで、水素含有比率が高い。また、水素比率の高い燃料ほど同じ発熱量での二酸化炭素の発生量は少ない。この点、天然ガスすなわちメタンの化学構造はCH₄で、炭素に対する水素比率がこれ以上高い燃料は、自然条件では存在しない。その意味で、重量あたりの熱量と環境負荷について、天然ガスは究極の化石燃料ということになる。
 ちなみに、よく誤解されていることであるが、熱量的に見て、また環境的にみて理想的なエネルギー源としばしば考えられている純粋水素=水素ガスは、そのままの形(水素分子、また極低温で液化された液体水素も同じ)では地球上の自然界に存在していない。常に他の元素との化合物としてしか水素という元素は存在しないのである。
 その意味で、燃料としての水素=水素ガスは必ず他の水素化合物から他のエネルギー源を利用して人工的に作り出されたものであり、如何なる意味でもエネルギー資源ではない。エネルギーの面から見ると、水素は他のエネルギー資源から変換されたエネルギー媒体にすぎない。

石井彰/藤和彦著『世界を動かす石油戦略』ちくま新書 2003年 pp.182-183

 日本の場合は特に、欧米と違って、メジャーのような自前の原油ソースやアクセス・ルートを持つ石油会社がほとんど存在していなかったために、「消費者への石油の安定供給」という使命に焦って、結果的には日本の業界自身が世界で真っ先にパニックに陥ってしまうという苦い経験をすることになった。
 石油調達ソースが多様化されておらず、ほとんどシェルやエッソ(現在のエクソン)、モービルなどメジャー頼みであった。このため、メジャーズが本国への供給を優先して日本へ石油を回してこないのではないかと石油会社も政府もたちまち疑心暗鬼に陥ってしまった。産油国に日本の石油会社の自前油田がほとんどなかったために産油国の情報も十分取れず、世界の消費国の中で真っ先にパニックになった。
 この結果、日本の石油会社やその意を受けた日本の商社が、石油禁輸を行わなかったイラン産などのスポット物の石油に一斉に群がって、自らとんでもない高価格をオファーしてしまった。これを見たサウジなどアラブ産油国、OPECが非常に強気になり、長期契約物の石油価格も一方的に一気に大幅に引き上げてしまって、世界の石油価格全体が急騰、暴騰してしまった。調達手段の多様性のなさが、自分で自分の首を絞める原因となった。

 (中略)

 要するに、国際石油市場の再配分機能は何とか機能していたのに、資源へのアクセスの多様性がなかった石油会社や国がパニック的な行動に陥ったり、不適切な政治介入などによって、必要以上に事態が悪化してしまったのである。

石井彰/藤和彦著『世界を動かす石油戦略』ちくま新書 2003年 pp.168-170

 中東大産油国で供給量が減少したにもかかわらず、先進諸国の石油輸入量がほとんど減らなかったのはなぜか。
 理由は二つある。
 第一に、供給量減少した産油国があったのと同時に、これに乗じて増産を図った産油国があったこと。
 第二に、国際石油市場の再配分機能が働き、特定輸入国に供給削減のしわ寄せが来ることがかなりの程度避けられ、非常に高い価格を支払うことができる先進諸国は、必要量のほとんどを結果的に輸入できたからである。
 上記理由のうち、特に重要なのが「市場の再配分機能」である。
 なぜなら、将来の石油危機を考えた場合、大きな余剰生産能力を持つ産油国が常に存在する保証はないが、国際石油市場の再配分機能は発揮されることがほぼ確実であるからである。この点の認識が、石油・エネルギー専門家以外の方々には必ずしも十分ではないと考えられる。
 政治家や国際政治の専門家などが、しばしば国産化、資源の囲い込みや特定産油国との同盟的な関係の構築を強く志向する発想の原点には、この認識がほとんど欠けているからというのは言い過ぎであろうか。平時においてだけでなく危機の際でも、多少時間はかかってものの、原油はスポット取引や転売・再転売、あるいは国際石油会社内部の再配分によって、不足が生じたところに回っていったし、原油がいったん精製されたガソリンや軽油等の石油製品でさえ高い価格を提示するところへ国境を越えてどんどん転売されていった。
 勿論完全とは言えないし、それが機能するまでに一定の時間もかかるし、大きな混乱も伴ったが、国際石油市場の再配分メカニズムは一般の方々が想像する以上に力強かった。
 従って、一番の問題は、いかにして危機時に価格の必要以上の暴騰を防ぐかである。

石井彰/藤和彦著『世界を動かす石油戦略』ちくま新書 2003年 pp.163-165

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