DOG ON THE BEACH

A season passes. A castle can be seen. Where is a soul without a wound ?

Tag: environment (page 4 of 8)

死んだ食物

 ここ半年くらいの僕の平日の食生活。朝起きて直ぐには何も食べられないので、仕事場の近くのコンビニでおにぎりを二個買って食べている。昼は幾つかの事情に因り、またしてもコンビニで何か買って食べるのが週の半分くらい。半分固形化した油が僕は駄目なので、出来るだけ油を使ってなさそうな物を選んでいるが、あまり食欲はないので少量に留める。そして夜は帰りも遅いし何もしたくないのでスーパーで安売りされている総菜を肴に酒を呑んでいる。
 こう書くと酷い食生活を送っているように読めるが、独身者の慣習としては割合一般的な気もする。一応栄養のバランスを考えてはいるし。僕は毎日違う物を食べたいという欲求は余りないので、毎日同じものを食べる事も苦痛ではない。そういった感じでこんな食生活も何の不都合もなく送れてしまうのだけれど、時々ふと考える事がある。何だか死んだ食物ばかり食べているような気がする、と。何というか、僕が毎日食べている食物には勢いというか豊潤さが全く無いのである。味がどうのこうの言う前の話である。単に調理してから時間が経っているという理由ではなく、何かがすっかり抜け落ちている状態の物しか口にしていないように思える。
 僕の体調の程度に因るものではないかとも考えてみるのだが、そんなのは毎日変わるし、継続して感じるという事は食物側に何かしらの問題があるのではないかと考え始めた訳である。簡単に言うなら、腹が減ったから食べているのに、身体が喜んでいない気がするのだ。そうすると食べ続ける気は直ぐさま失せるし、その後はただ流し込むだけである。

 一体何が原因なのだろうか。食べる事を楽しめないというのは非常に由由しき問題であると思う。加工品ばかり食べているから防腐剤のせいかとも思うし、吸ってる空気や水の問題であるようにも思える。
 例えば、5年か6年くらい前に箱根に旅行した時の事。泊まった旅館の夕食に出された山菜尽くしの数々の料理。味付けもシンプルというか地味であったのだが、僕は御飯を四膳もお代わりしながらそれらの料理を食べ続けた。普段の僕の食の細さを知っていた同行した人も、それに僕自身も驚くほどの食欲で出された物以上の料理を平らげた。美味しかったというのも勿論だが、それ以上に兎に角嬉しかったのだ。身体がとても喜んでいた。
 僕が普段食べている食物には、箱根で食べた物のようなエネルギーのようなものが全くない。

 ここ数日僕が考えている事は、其処で生産若しくは採れた食材を、其処で調理し、其処で食べさせる食物を食べたいという事。売る為ではなく、生きる為に用意された物を食べたい。

水と人の親和性

 羽海野チカの ” 3月のライオン ” を読んでいたらこんな場面が在った。事故で両親と妹を亡くした17歳でプロ棋士の主人公は、自宅の近所(モデルとしては月島)を流れる河を眺めながらこう考える。

 河が好きだ。好きなものなんてそんなにはないけど・・・。水がたくさんあつまった姿を見ていると、ぼうっとして頭がしんとする。

 よく解る表現である。川面をじっと眺めていると次第に周囲の音や匂いやその他の感覚が少しずつ遠のいて頭の中がとても静かになる。僕は生まれてこの方河の近くにしか住んだ事がないので、それだけ親しみも在るし懐かしさもある。しかしそれだけでは説明出来ない何とも言いようのない感覚に陥ってしまうのである。それが物質としての水そのものにその影響力が在るのか、それとも水の流れにあるのか、今を持ってよく解らない。
 ただ、頭の中がごちゃごちゃして一体全体何から手を付けて良いのか、更に進んでもう何もしたくないと思っているような時には、河の流れを眺めて過ごせば幾らかは気が楽になるような気がする。言葉を換えるならば、有効な自分の緩め方であると思う。

灯油の匂い

 escobor さんが石油ストーブについて書いていたので思い出した事を少し。

 僕はどうにも寒いのが嫌で、気温が20度を下回れば寒いと感じるし、10度を下回れば屋外に出る気になれないし、一桁前半の気温ともなれば「俺を殺す気か!」くらいの気持ちで天を睨み付けるような温帯気候に適した人間である。僕にとっての適温は27〜28度である。
 そんな僕であるが故に、数年前まで石油ヒーターを使っていた。エアコンの温風でも間に合わない寒さの場合はやはりストーブだろうと近所のイトーヨーカドーに行ったのだが、生憎とストーブを売っておらず仕方なくヒータを買ったのである。幸い近所の灯油を売っている所が在り、土曜日にそこまで赤いポリタンクを持って行き、帰りには満タンのポリタンクを休み休み部屋まで運んでいた。
 そして或る年の冬、前述の店の主人が突然「土曜日は灯油を売らない」とよく解らない事を宣言し、僕は石油ヒータを使えなくなる。ガソリンスタンドで買えば良いのだが、何しろ其処までが遠い。僕の腕力では無理である。僕は泣く泣くエアコン生活を強いられる事になる。僕は家庭用エアコンによる空調が好きではない。自分が工業製品の一部にでも成ったような気分になるし、空調の音が煩い。それに冷房は未だ良いけれども、暖房が嫌だ。冬場の暖められた空気が風で流れるというのが不快だ。
 そして僕はある時通販でデロンギのオイルヒーターを(FMラジオのショッピングコーナーを聴いていて、その場のノリで)買った。これなら空気は動かないし、海外の映画などでよく登場するから憧れていた部分もある。しかしながら、小型のタイプを買ったせいなのかこれが余り暖かくないのだ。暖まるまで時間がかかるし本当に寒い時には余り役には立たない。なのでオイルヒータは秋や春に使う事が多かった。しかし今年は暖冬のせいか、最近までオイルヒーターのみで過ごせていたのだ。この暖かさは良い。優しく暖められた空気は大変心地良い。
 それが此処暫くの寒さに耐えきれず、嫌々ながらもエアコンの電源を入れる。確かに暖かいが、やはり好きではない。灯油の匂いが懐かしい。臭いと言えばそうだが、既にあの匂いは記憶の襞に深く刻み込まれていて余り不快には思えないのだ。灯油の匂い、暖かな室温、シュンシュンと鳴るヤカン、結露する窓ガラス。それらは冬の記憶として僕の意識の奥底に存在している。

一汁三菜

 日本に於ける食事の基本と謳われるこの形式。厳密にこれを守っている家庭人など殆どいないのではないかと思うが、思い返してみれば、僕の実家での食事は基本としては大体に於いて守られていたように記憶する。飽くまで基本だけどね。しかも昔の話で。
 揃いも揃って身勝手で好い加減な性格の持ち主である我が家族は、年月を経る毎に基本が崩れていく。放っておけば勝手に自分が食べたいものを勝手に作り始める男共に対して、母だけが最終的な基本形を守り続けていた。毎日の生活に於ける中心はどう考えても母であったし、またそうあるべきである。しかしながら唯一人、人の話の腰を折るのもまたこの人である。誰かが喋っていても余り聞いていない。自分が喋りたければ周囲の意志や状況はお構いなしである。・・・いやまあ、そんな話は関係ないか。

 僕の食生活の起点となっているのは晩酌時である。夜ともなればずっと呑み続けているので、必然的にまともな食事をする事がない。肴にちょっと毛が生えたくらいのものである。それでも一応は栄養のバランスはうっすらと考えてはいて、野菜とタンパク質を交互に摂ったりしている。炭水化物を摂る事は少ない。夜中に余程腹が減った場合か、休日の夜くらいなものだ。そして足りない炭水化物は朝や昼に摂る。朝は何か食べないと目が覚めないので、何かしら食べる。平日はコンビニでおにぎりを少なくとも一個は食べている。そして昼も炭水化物が中心の食事を摂る。
 朝や昼は時間をかけて食事をする暇はないので、取り敢えずエネルギー源を掻き込み、夜は酒を呑みながら炭水化物を摂る気には余りなれないのでそれ以外の栄養素を摂る。一日を平均すれば実に理に適った栄養摂取であるように思うのだが、どうなんだろうか。

 そんな生活を続けている僕も、最近は一汁三菜の食事というものが、やはり日本人の食生活に於ける理想型であるのではないかと思い始めている。昔から口の中が乾く感覚が嫌いなので、食事時に汁物は欠かせないし、タンパク質中心の食事は気が滅入る。そして歳をとったせいか日本食以外の食べ物には違和感を感じるようになってきた。三食とは言わないまでも二食でも一汁三菜の食事を摂っていればもっと健康なのだろうなあ、と考えるよりも先に身体で感じている。とは言え単身者にその食生活は異次元の話のようにも思える。しかしながら食生活の追求というか充実は、似非とは言え文化人の基本であるよなあと思う冬の夜。

 余談だが、神楽坂に日本酒と一汁三菜しか出さない呑み屋があるらしく、二度ほど足を運んだのだが何れも店が閉まっていた。今ではその店の名前をも忘れてしまったのだが、やはり行ってみたいなあ。

追記 2008.01.22: その神楽坂の店の名前は伊勢藤であった。それと、一汁三菜はお通しだけの話で、その他にも色々と用意してあるとの事。リンク先に更にリンクされたサイトに店構えの写真が在る。この季節、粉雪が似合いそうな素晴らしき風情。

小菊

days_20071123a 暫く前に、ラジオに出ていた假屋崎省吾が「最近の菊はいろんな種類があって綺麗なんですよお。」と話していたので、先週末に近所の花屋でサービス品として売られていた淡い黄色の小菊を一束買った。正確な名前は知らない。それを部屋にあったフラスコに挿している。何故そんな物が在るのかというと・・・よく思い出せないが我が家には花瓶の他にも色々と瓶が在るのだ。コカコーラの瓶(200ml)とか、北欧製の液体石鹸の瓶とか。
 それでどの瓶に挿そうかと考えあぐねて、ふと「粗末な感じのする奴が良いのではないか。」と思いフラスコに挿した訳なのだが、割とそれが気に入ってテーブルの上、パワーブックの隣に飾ってある。

 そして今日、一日部屋に居たのでその菊を眺める時間が長かったのだが、飾ってから一週間経つというのに、買った時と変わりない淡く穏やかな黄色い花はこの季節に良く似合うような気がした。しかし何かこう、薄い印象が周りに在る物全てに浸透している感じで、静けさを創り出しているいるようにも思えるのであった。美しい。確かにそうだが、何処となく薄幸そうな印象を持ってしまうのは、やはりフラスコなんかに挿しているからなのだろうか。

 儚げな色彩を持ち、しなやかさと意外な強靱さを併せ持つ和花を最近になって気に入り始めた。

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