DOG ON THE BEACH

A season passes. A castle can be seen. Where is a soul without a wound ?

Tag: sexuality (page 2 of 9)

 戦闘美少女というイコンは、こうした他形倒錯的なセクシュアリティを安定的に潜在させうる、希有の発明である。小児愛、同姓愛、フェティシズム、サディズム、マゾヒズムその他さまざまな倒錯の、いずれの方角へも可能性を潜在させつつ、しかし本人はまったく無自覚なまま振る舞っている。彼女たちの存在は、「少年ヒーローもの」の対として受け取られ、さらにフェミニズムの文脈において十分に保護されるだろう。その倒錯性を指摘するような野暮は、いまどきの心理学者や精神科医に似つかわしい振る舞いとして失笑を買うだけだ。彼女たちの受容状況は、現代社会のーーとりわけ女性のーーありようを見事に象徴している。実際、そのような分析も部分的には可能なのであり、その視点から書かれた書物が歓迎されやすい状況もある。しかし私はそうした分析に、あまり関心を持つことができない。いまや虚構に現実の直接的な反映をみるといった素朴な分析こそが、「虚実混同」の典型的事例なのだ。このレヴェルに留まる限り、おたくの乖離したセクシュアリティを解読することは決してできない。

斎藤環著『戦闘美少女の精神分析』ちくま文庫 2006年 pp.311-312

「性」の図像表現について検討すべく、ポルノグラフィーを取り上げてみよう。言うまでもなくこの領域では、即物的で実用性の高い表現が偏重される。ロマンポルノが衰退し、アダルトヴィデオが隆盛をきわめるという流にも、簡便性と実用性の追求が見て取れる。

 (中略)

「ヘアヌード」が氾濫し、AV すらもなかば飽きられつつあるこの場所で、「ポルノコミック」の巨大な市場が成立するという不条理。さきにも指摘したように、このジャンルにおいても「アニメ絵」がただならぬ勢力を誇っている。日常的現実との対応関係からみるとき、これほど非-現実的な絵柄もない。それにもかかわらず、このような表現がポルノという実用的な次元において選択され、流通すること。そして、そうしたことが欧米ではまったく考えられないということ。おそらくこの対比は、重大な意味をはらんでいる。
 もちろんここにも、歴史的背景はある。ロンドン大学ブルネイギャラリーのタイモン・スクリーチ氏によれば、江戸時代に大量に描かれ流通した「春画」は、庶民の自慰のために用いられたという。
 もしそうであるとすれば、われわれはまたしても、漫画・アニメのルーツを江戸時代に見出すことになる。描かれたものによって性欲を喚起し、処理するという「文化」。そうではなくて、われわれはここにおいて、「描かれたものの直接性」という問題系にゆきあたったのだ。

斎藤環著『戦闘美少女の精神分析』ちくま文庫 2006年 pp.304-306

「検閲」について考えるなら、この点はいっそうはっきりする。日本的空間の検閲者は、表現の象徴的な価値には概して無関心のようだ。性器がまるごと描かれるようなことさえなければ、どのような冒瀆的な画像であろうと公表できる。しかし西欧的空間においては、図像はその象徴的な価値に応じて検閲される。性器が映るか否かといったトリヴィアルな問題ではなく、ともかく図像における冒瀆的あるいは倒錯的な要素が厳しい注目に曝されるのだ。

 (中略)

 この対比からまず指摘しうることは、次のことだ。西欧的空間における図像表現は「象徴的去勢」を被るが、日本的空間においてはせいぜい「想像的去勢」しか存在しないということである。たとえて言えば、西欧的空間ではペニスを象徴するあらゆる図像が検閲されるが、日本的空間においてはペニスそのものさえ描かなければ、何をどのように描いてもよい。私はそうした皮肉な意味で、日本のメディアはもっとも表現の自由に開かれていると考える。そして問題は、むしろこの「自由」のほうにあるのではないか。
 日本的空間においては、虚構それ自体の自律したリアリティが認められる。さきにも触れたように、西欧的空間では現実が必ず優位におかれ、虚構空間はその優位性を侵してはならない。さまざまな禁忌は、その優位性を確保し、維持するために持ち込まれる。例えば性的倒錯を図像として描くことは認められない。虚構は現実よりリアルであってはならないからだ。そのためには、虚構があまり魅力的になりすぎないように、慎重に去勢しておく必要がある。それがさきに述べた「象徴的去勢」ということだ。

斎藤環著『戦闘美少女の精神分析』ちくま文庫 2006年 pp.300-302

 ここでジョバンコ氏は、アメリカでのタブーの意識を知る上で、貴重な資料を提供してくれている。セーラー服自体が水夫の仕事着を女子学生の制服に転用したものであるという経緯は、たしかに注目に値する。近年わが国で異常なほど注目されている「女子高生」への関心は、たんに若い女性への欲望ということだけでは語りきれない要素をはらんでいるからだ。そこには少なくとも服装倒錯的な嗜好が紛れ込んでいる可能性がある。さらに極論すれば、セーラー服と若い女性の組み合わせを愛好するという行為については、小児愛に服装倒錯、さらには同性愛的な嗜好などといった他形倒錯の傾向として分析することも不可能ではない。
 氏はまた「変身」にちても、次のように述べている。
「(戦闘美少女が変身することについて)たぶんそれは、幼く可愛い少女から成熟したタフな女性への変化だ。この二重人格性は、成人男性のオタクが少女に望むすべてをもたらす。それは彼女たちを完璧な存在にするのだ」。
「変身」が加速された成熟の隠喩である点は、私もまったく同意見である。

斎藤環著『戦闘美少女の精神分析』ちくま文庫 2006年 p.115

 おたくの多くは虚構にはまる自分自身をも客観視でき、かつそれをネタにして遊んでいるので、嫌悪感を抱かれる事すらもネタにできるんですよ。あ、もちろん合法的範囲内でですけどね。
 例えば、「スーパーで、『カードキャプチャーさくら』の絵本を買ったら、店員や周りの客に白い眼で見られた」などといった会話も日常的に行います。また、冒頭の「綾波等身大フィギュアで抜く」話で言えば、その横に堂々とローションを備えたまま、友人を部屋に通したりしている人が実在するわけです、これで何をしているか一目瞭然という。
 そう言えば、コミケで、スカトロ系のアニメ同人誌を売っている売り子さん、えらく誇らしげでした。しかも買う側も誇らしげに買って行きます(笑)。
 私が某パソコン通信のアニメ関係のボードのオフ会で、おたくの男性十数人で群れをなして新宿を歩いていた時、たまたまあれは歌舞伎町を歩いていた時だったんですが、風俗の客引きが現れたんですね。「可愛い娘いるよ」って。それに対して、常連メンバーの一人が「おれはセーラームーンの方がいいんだ!」って返して、客引きがおとなしく去って行ったのを見て、みんなで大爆笑したこともありました。
「そこまでやるか普通!」という内外の声は、むしろ敏感に入ってると思います。それらの声に応じて、またあれこれやって遊ぶ。この繰り返しです。
 私の知る限り、おたくの性生活の実体はきわめて健全、といって悪ければ平凡なものです。つまり、性欲のあり方として、健全かつ凡庸であり、パンピーとの差違は認められないんです。だいたい、実生活においてホモセクシュアルであったり、ロリコンであったりするおたくは、少なくとも私の知る範囲ではいませんね。おたく同士でつきあっている男女も珍しくありませんし、男性ならば、稼げるようになって、それなりに社会的地位もできると、ごく当たり前のように普通の女性と結婚していきますしね。まあ大塚英志センセイの言われるように、一般人より異性のお友達が多いかどうかは、よく知りませんが。ともかく一般におたくと性倒錯とはそんなに関係ないと思います。

斎藤環著『戦闘美少女の精神分析』ちくま文庫 2006年 pp.77-79

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