DOG ON THE BEACH

A season passes. A castle can be seen. Where is a soul without a wound ?

Category: Hobby (page 2 of 16)

泉岳寺から高輪台を歩く(後編)

 豆腐屋が二軒もある。”高輪浴場” という銭湯がある。花屋がある。”虎屋” をはじめ和菓子屋もある。商店だけでなく、千葉のほうから大きな荷物を背負って魚の干物や野菜や果物を売って歩く行商のおばさんの姿も見える。親しい友人がこの町に住んでいるが彼にいわせると「ここは豆腐屋から葬儀屋までなんでもある町だ」ということになる。なるほど確かに葬儀屋もある。
川本三郎著『私の東京町歩き』ちくま文庫 1998年 p.48

 こうエッセイの中にあるのだが、どうもそのような雰囲気ではない。しかし場所は間違っていないようだ。僕が想像していたのは、せいぜい車一台が通ることが出来るくらいの道幅で、歩道もなく、個人商店がひしめき合うように建ち並ぶ、東京の東側でよく見るようなものであったのだが、実際には二車線の道路が走り、歩道の幅も充分に確保されていて、建物もぎっしり詰め込まれている訳ではない。「非常に明るく解放された感じがする」と書かれていたのは、この空間を広さを言ったものなのだろう。考えてみれば25年も前の記事であるので、店を閉めた商店も多いだろうし、それが建て替わって今のマンションが在ったりするのだろう。来るのが遅すぎた気がして、それが悔やまれる。

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 店は開いていないようだが、虎屋の建物は在った。中央部に煙突があるという事は、店舗の裏側に和菓子を作る厨房というか工場のようなものが在るのだろう。

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 廣岳院という曹洞宗の寺。この頁が詳しいようだ。入口から見える本堂の姿が少し変わった雰囲気だったので撮った。

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 道路に面した寺の山門を撮るのを忘れているので、再びこちらの頁を参考にされたい。日蓮宗承教寺とある。このサイトは実によく調べてある。僕はたいして下調べもせずに行ったものだからほぼ素通りしてしまって、道路に面したものしか見ていない。大変惜しい事をした。

左図: そう、この寺には「英一蝶」の墓があるのだ。それはこの立て札を読んで知ったのだが、墓には別段興味がわかなかったので中には入らなかった。しかしそれだけではなく、一蝶の描いた釈迦如来像が在るという事実を上記サイトで今知って、そして今悔しがっている。

右図: そしてこれは門前にある置物。気色の悪い狛犬だなぁと思って写真は撮っておいたのだが、実はこれ「」だそうだ。なぜ妖怪。なぜ件。不可思議だ。

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 こんな感じで、商店街とは呼べない雰囲気で道路を続いていく。25年前には在った店が次々に閉店して行ってる様子が窺える。

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 しかし所々には、レトロに洒落たワインバー(たぶん)があったりもする。蕎麦屋も見かけた。

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 このテイラーは営業を続けている。

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 そしていよいよ、目当てにしていたものが登場した。奥が高輪警察署で、手前が高輪消防署二本榎出張所である。

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 エッセイにも紹介されていたので期待していたのだが、それに充分に応えうる建築物であった。円筒形の火の見櫓が素晴らしい。さっきのサイトにも紹介されているのでリンクしておく。此処も中を見ておけば良かった。後悔一頻り。こういうランドマークが自分の住む町に在のは良いだろうなあ。

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 その後は別に面白くはない。左図の左手の奥にグランドプリンスホテル新高輪の高層階が見えるくらいだ。そして高輪3丁目の信号を右に折れると右図のように再び庶民的な並びとなる。

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そして高輪台の六差路に到着。これにてこの散歩は終わりである。全体を通してみれば、居心地の良い通りだったなあ。

泉岳寺から高輪台を歩く(前編)

 川本三郎が著した「私の東京町歩き」という本の中に、1988年11月に出版された雑誌「東京人」に書いた「高台にある眺めのいい町」というエッセイが収録されている。実際には高輪1丁目・2丁目の商店街というのがそれに当たるそうなのだが、町の人々は「二本榎商店街」と呼んでいるそうだ。エッセイの中にこういう記述がある。

 そして地形的に面白いのはこの商店街が高台にあることだ。ちょうど尾根づたいに通りが伸びしている感じである。ふつう港区の町は山の上はお屋敷町、山の下が庶民的な商店街とわかれることが多いのだが、二本榎商店街は珍しく山の上にある。だから小さな個人商店が並んでいるのに非常に明るく解放された感じがする。
川本三郎著『私の東京町歩き』ちくま文庫 1998年 p.48

 この一文を読んでとても行ってみたくなった。ちょうど10月の終わりに上京した際の飛行機の中でこのエッセイを読んでいて、ついでに立ち寄ってみる事にした。エッセイには続いてこういう記述がある。

 この町には新橋から都営浅草線に乗って行く。新橋から大門、三田ときて三つめの泉岳寺で降りる。そして細い坂道をのぼっていくと商店街に出る。新橋から約十五分である。そこんは都心とは思えないような “昔し町” が残っている。最近、この町を知って夏のあいだ銀座に出たあと何度か散歩に通った。この町の魅力は、小さな商店街と坂とそしてお寺だ。
川本三郎著『私の東京町歩き』ちくま文庫 1998年 p.49

 このルートで歩こう。そう決めた。

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 で、やって来ました泉岳寺。地下鉄の入口はまあ、こんなもん。

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左図: 駅前に藪蕎麦。11時くらいだったが、入って山菜蕎麦を食べた。旨いとも思わなかったが不味くもなかった。客は僕以外に誰も居なかったが、雰囲気は悪くなかった。

右図: 店を出て泉岳寺方面へ歩く。ご覧の通りに割と殺伐とした通り。

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 そして泉岳寺。境内に入って参拝もしたし、赤穂浪士の墓も見たのだが、今回の趣旨から外れるので割愛。強いて書くなら、上の写真で僕の前を歩いていた白人の青年が、僕よりも前に赤穂浪士の墓地のエリアに入って行ったのだけれど、僕が行き着いた時に彼の姿は無かった。擦れ違わなかったし、一回りしても他に出口は無かったと思う。彼は一体何処へ消えたのか。気になったが先を急ぎたいので考えない事にした。見物に来ていた客は、洋の東西を問わず外国人が多かったな。

 さて、ここでもう一度エッセイの一文を読み返す。

 そして細い坂道をのぼっていくと商店街に出る。

 この「細い道」とやらを探さなくてはいけない。行きつ戻りつ、ウロウロしてみてようやく下図の先にあるのではないかと見当を付けた。

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 右奥の門扉は高輪高校のもので、そこから生徒が何人か出てきたので気付いた。地図を見て貰えば判るが、この学校の敷地というのがもの凄く複雑な形をしていて、その事情を想像しているとちと楽しい。話は逸れたが、門扉へと向かう道の左側に空間の存在が見て取れるので、もしかしたら道が在るのではないかと思った訳だ。

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 果たして道は在った。人が擦れ違うのがやっとの細い道。書かれてあったのはこれに違いない。この道が泉岳寺と高輪高校のどちらの所有するものなのかは判らないが、よくぞこの抜け道を残したものだと感心した。所々の緩やかに折れ曲がった角に街灯が建ててあり、設備が相当古いのも相まって、夜にこの道を通ると良い雰囲気であるように思う。ちと恐い気もするが。

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左図: 泉岳寺と高校の境界線を抜けても相変わらず道は細かったが、今度は古びた人家やアパートが立ち並ぶ。住人以外は立ち入る事の無い感じがわくわくする。

右図: 更に歩き進んでいくと少し開けてくる。新しめのマンションなどが建ち並ぶ。

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左図: 更に進むと緩やかな上り坂になる。いよいよ商店街の通りに出るのかとわくわくしてくる。

右図: 出た。想像していたよりずっと道幅が広く、近代的な建物が並んでいる。商店街など何処にもないではないか。そう思いながら左に折れる。

(続く)

今どきの終活

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 暫く前の話であるが、地元の街のアーケード商店街を歩いてると左写真のようなスタンド看板が目に入った。黒板に書き殴られた様子がカジュアルなわりには「遺言」という言葉が重くて非常にシュールである。これは実は、行政書士の事務所兼店舗の前に掲げられたもので、客を呼び込む為のようだ。詳しくは知らないのだが、行政書士には遺言書の作成を支援する業務があるようで、その為このような看板を掲げる事もなんら不思議ではない。しかし、その事を知らない人は何事かと思うだろう。おまけに、本来は「飛び込みでいらしても書き方をお教えします」という意味であるはずが、変に簡略化して言い切り型の言葉「飛び込み OK!!」で書いてしまっているので、左側の「遺言」という言葉が妙に影響して「もしかして、飛び込み自殺する際の遺言についても相談を受け付けてくれるのか」と思わないでもない。遺言を残すという大事な行為を支援するのだから、ニュアンス的な事にもう少し気を遣った方が良かったのではなかろうか。ついでに書いてしまうと、高いのか廉いのか判らないが「3000円」という金額がいささかポップな印象を与える。何というか、今では余り見かけなくなったが「明るい家族計画」と似通ったセンスを感じる看板であった。

架空地図

 関東では6月29日に放映されたタモリ倶楽部の架空地図の回を先日ようやく観た。面白かったなぁ。登壇した三人は、始めたきっかけや理由は様々でも、同じように小学生の時に空想の地図を描き始め、それからずっと描き続けている。それだけ長い間、同じ事を飽きずに続けている人というのは、もうそれだけで恐れ入るのだが、この場合は、架空地図を描く事がどう楽しいのかが自分にも解るので、それを成長と共に蓄積される知識や、繰り返す空想を丹念に組み込みながら増殖させる事の喜びが想像出来るのである。

 話変わって小学生の頃僕は、週刊少年ジャンプに連載されていた「サーキットの狼」を好きでよく読んでいた。連載は1975年から1979年にかけてで、中盤の少し後くらいに、舞台が瀬戸内海の流石島に造られたサーキットでのレースに移った辺りが一番熱心に読んでいたと思う。そして僕は読むだけでなく、漫画の中に続々と出てくるスーパーカーを模写するのが好きであった。ロータス・ヨーロッパ、ポルシェ・911カレラ、ランボルギーニ・ミウラ、ランボルギーニ・イオタ、BMW(当時はベー・エム・ベーと発音していたと思う)、フェラーリ・ディノ、フェラーリ308GTBなどなど、挙げていたら切りがない。「スーパーカー大百科」という小型辞典のような本も買って貰い、熱心にそれらを眺め回しては模写していた。
 そうしているうちに、漫画の中では舞台がサーキットに移り、スーパーカーをサーキットレース仕様に改造した車両が続々と登場する。そこで僕は何かしらヒントを得たらしく、今度は自分が考えたレースカーを描き始めた。誰にも教えられていないのに何故かしら三面図で描いていて、ボディラインを描いては消し、自分の理想の形状になるまでそれを繰り返した。今から考えると、僕がデザイン的な行為をしたのはそれが最初だったかも知れない。 そしてそれが更に高じて、今度は流石島サーキットの平面図に魅入られた僕は、自分で考えたサーキットとその周辺環境を描き始めた。メインストレートの全長が何百メートルだとか、第一コーナーの半径は幾つだとか、バンク角度が幾つだとか、スターティング・グリッドの配列はどうだとか、敷地内に森や河を適度に配置させるだとか、そういう事を考えてそれを描き込むのがとても楽しかったのだ。何故突然そんな事に興味を持ったのか。記憶は薄いので定かではないけれど、たしかレーシング・スーツやヘルメットのデザインもやってたと思うので、まだ自分にデザインされていない要素がもうそれしか残っていなかったのだろう。描くだけ描いても高ぶった気持ちを持て余してしまうので、とうとう手を付けてしまった。と、そういう事だったのではないかと考える。

 恐らくそれから数年後、きっかけはもう全く思い出せないが、僕は自分が住む市の全域図を描いていた。そんな事をする必要は全くないはずである。何か気に入らないところでもあったのだろうか。僕は市内地図から主だった道路と鉄道路線を書き写し、それを白地図として、駅を増やしてみたり、人口に対してまんべんなく行き渡るように学校や病院、公園を配置してみたり、何となく住む人がより良い生活を送れるように配慮しながら都市計画をしていたようだ。小学生(か、もしくは中学生になってたかも)のくせに生意気である。割と細かい設定までも考えていたようで、この学校は公立にしようとか、女子校も増やした方が良いのではないかとか、既存の校名がなければ地名から命名するとか、そんな事まで考えていたと思う。とにかく楽しかったようだ。しかしそれを続ける事をしなかった。気まぐれで飽きっぽい性格がそうさせたのだろう。タモリ倶楽部の架空地図回を観ていると、どうしてやり続けなかったのだろうと悔しさがこみ上げてくる。でもまぁ、今更しょうがない。

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 余談であるが、番組内で登壇していた方の一人がブログをやっており、そこにある「架空都市レファレンス」というリンク集が素晴らしい。こういうのを色々集めて、展覧会をやったらどうだろうか。面白そうなんだけどなぁ。

魅惑の金属部品

 前回の記事を書いている最中についでに思い出した事。

 河井寛次郎は工事現場に赴き、土管の接続管(現在では金属や樹脂などで作られている)を眺め、それを「たいした形じゃないか」と賞賛していたそうだ。そしてその形を模した花瓶などを制作している。
 で、僕の話だが、前回の記事の頃から数年後、小学生となった僕は工事中の新築家屋や廃屋に忍び込むのが好きだったようである。特に思い出深いのは、自宅から少し離れた場所に自動車学校が新築される事になり、その工事中の現場に度々忍び込んでいた事である。広い敷地だとは言え、小学生が簡単に侵入出来るほど不用心な工事現場が存在する事に、今をもって考えれば驚きであるが、当時の田舎での管理とはそんなものだったのかも知れない。話を戻すと、僕(そう言えば他にもメンバーが居た)の目当ては、現場内の彼方此方に放置されている金属部品であった。鉄筋やボルト・ナット・ワッシャー・フラットバー等そんな物だ。そういう普段の生活の中ではお目にかかれない金属片に魅入られていたとでも言おうか、それを拾い集めていたのだった。特に気に入っていたのはナットと角ワッシャーで、ひんやりとした手触りと鈍く光る質感、ピン角のフォルムが好きであった。宝の山を見つけた僕らは、なるべくキレイな物を選び持てるだけの部品を手にした、ところまでは憶えているのだが、それらをその後どうしたのかを憶えていない。自宅に持ち帰った記憶がないのですよね。持ち帰ったところで置き場所は無いし。もしかすると工事現場内の何処かに隠したのかも知れない。二三度は忍び込んだ気がするので、それは隠した場所に宝物を見に行ったのかも知れない。
 こういった類いの事を思い出していると、自分が好きなものというのは余り変わらないのだなと思う。成長し大人になっていくに連れ、好きなものの種類や要素が段々と増えはするが、元々好きなものは今でもやはり好きである。使うアテのない金属部品(今ではもう少し複雑な形状のもの)を買ったりするのを我慢してはいるが、東急ハンズやホームセンターに行くと欲しい物だらけで非常に困るのである。

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