黒田氏は博多町人を姫路に遣わし、播州一宮伊和明神のお祭りの踊りをみせた。年の暮れの例祭で行われる悪口祭も見学させたらしい。井原西鶴が『世間胸算用」の中で京都の悪口祭について、「都の祇園殿に、大年の夜けづりかけの神事とて、諸人詣でける。神前のともし火くらふしてたがひに人㒵の見えぬとき、参りの老若男女左右にたちわかれ、悪口のさまざま云いがちに、それはそれは腹かかへる事也」と書いている。当時悪口祭は各地でおこなわれ、庶民が神社の暗やみの中で、日ごろのうっぷんを思う存分はらし、罵倒しあい、ストレスを解消した。
 陽気で血の気の多い博多町人は祭り好き。博多町人の対応に悩んでいた藩は、博多町人把握の一策として、無礼講の悪口祭つまり「にわか」を奨励した。毒舌の中に民意を把握しようというのが、黒田氏のねらいだったようだ。もっとも藩への痛烈な批判がすぎて、流罪となる町人も出たという。

武野要子著『博多〜町人が育てた国際都市〜』岩波新書 2000年 pp.140-141