天下分け目の関ヶ原の合戦から三ヶ月ほどたった慶長五(一六〇〇)年一二月八日、黒田長政は家臣を遣わして、小早川隆景・秀秋が二代にわたって居城とした名島城を受け取った。長政は新しい任地と決まった筑前に入り、途中飯塚の大養院に寄り、同月十一日に名島城に入った。翌年元旦、如水・長政父子はこの城で家臣らの年始の礼を受け、それぞれに恩賞地を与えた。二人はさっそく名島城に代わる新しい城の建設地の物色を始めた。名島城は三方を海に囲まれて要害としては申し分ないが、境地が片寄って城下が狭く、平穏な政治が出来にくいというのが、新しい用地物色の理由であった。大藩にふさわしい立派な城郭と広々とした城下町の建設ーーそれが長政らが画いた構図であった。その構想は、名実ともに九州の雄たらんとする、近世の大大名黒田氏ならではのものと考えられる。
 候補地は箱崎、荒津の山、住吉、福崎の四ヶ所であったが、福崎が長政らの心にかなった。この土地の地名を黒田氏の郷里(現在の岡山県邑久郡永船町福岡)にちなんで「福岡」と命名したことはよく知られている。

武野要子著『博多〜町人が育てた国際都市〜』岩波新書 2000年 pp.127-128